民主共和国臨時政府執務室

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Two Treatises of Idol

すっかり暑くなったね。







最近バブル期のアイドルにややハマりつつある。厳密にはバブル終盤から90年代初頭にかけてではあるが。特にこれといって曲を聴くとかではないものの。バブルに戻りたい、全然産まれる前だけど。


ということで考察をする。タイトルは読む読む言っといてまだ一文字も読んでない本のモロパクリ。ジョン・ロック先生許して。












神としての天海春香 - 春香Pの雑記




友人のクソザコ野郎天海春香Pの記事が、かつて散々仲間内でも議論したこともある新鮮で訳のわからない的を射たものだったので、こちらでも管を巻き議論を深化させたい。


なおこの記事においては、議論は形而上学的内容に留めるものとする。あともう分かりきったこととか言わないで泣いちゃうから。






①アイドルとは何か



最も無粋で資本主義的な「アイドル」の定義は、


自らをイコンとした虚像を構築し、それを売買することで生計を立てるもの


である。




「アイドル」の存在意義は青少年の性的欲求を満たすのみにある訳ではない。性的欲求と書いたが決して大げさなことではない。男女問わず、本能としての性的欲求を満たす価値がアイドルになければ、どうしてグラビアのブロマイドなどというものが存在し得ようか。マルクス主義的にいえば、アイドルの「使用価値」である。





私自身「アイドル」になったことがないので詳しくはわからないが、「アイドル」という職業に就く者はおおよそ、歌詞のついた歌曲を市場に提供するという行為を繰り返す以上本人の意志として、あるいは彼らのプロデューサーとファンとの間の媒介者として、直接的あるいは間接的を問わずした何らかの「メッセージ」の伝達を行わんとしているのである。基本的にそのアイドルのファンは、その「メッセージ」に癒し、極端に言えば救済を求めてファンとなりうるのである。


「メッセージ」とは難しい概念である。歌詞の内容も「メッセージ」、容姿も、バラエティ番組におけるトークの内容も「メッセージ」。聖子ちゃんカットも本田美奈子のヘソ出しも「メッセージ」。古いんだよなぁ。






それら「メッセージ」におしなべて共通する概念は「善」である。およそ一般人には無い風貌やスタイル、歌唱力や愛嬌。全ては社会通念上「善」とみなされるものである。どのようなものが社会通念上の「善」とされるかは、社会学とか文化人類学倫理学とかいう範疇の議論に任せたい。





「アイドル」に付随する宗教性はしかし、ここにこそ見出すことができる。アイドルの抽象的、本質的な存在意義とは、社会的「善」の場の提供にある。



集団の知としての社会的「善」の体現者たるアイドルに対して信頼、フォローを行うことにより得られるものには、心理的欲求の充足だけでなく「善」を共有する集団内部での存在の承認も含まれる。この構造には、コミュニティとしての宗教との差異はない。「アイドル冬の時代」以前の女性アイドルに(当時不良ブームであったとはいえ)しはしば不良が関与していたのも、このことから納得がいく。本物のSSみたいに暴力的な親衛隊を組織していた当時のツッパリ達が求めていたものは、コミュニティからの存在承認であったのだ。








ただ大前提として、全能神でない存在は無欠なる「善」になる事はできない。それゆえアイドルは、自らを「イコン」にし、虚像としての大いなる存在、「メッセージ」の主体を構築する。

この一連の転換が、いわゆる設定である。どんなアイドルにも設定が存在する。アイドルはウンコをしないものなのだ。




なおアイドルとして生活をする者のコストは、そのイコンを肉体的・精神的に保持するために必要とされる費用であり、それらにアイドル自身の生活費やらなにやらの費用と、事務所とレコード会社、出版社の取り分を加算した金額が楽曲やら写真集やらの金額へと還元されているわけである。その資金を元に、虚像たるアイドル像は生身の人間に対して結びつけられていた




余談ではあるが、広義の意味で言えば現代の声優や所謂「女子アナ」もアイドルであることに異存はないはずだ。声のみで勝負をする業界であるはずが、いつの間にか容姿や性格をも内包したトータルとしての個人の価値を追求される世界へと変貌してしまった。この歴史的経緯は後に議論する。







閑話休題正しい用法)。アイドルに関する基本的な考察は以上までが妥当であろう。では、なぜ現在「アイドルマスター」が存在するのか。日本のアイドル史を検討し考察する。








②プロデューサー信仰について、そして「アイドルマスター」について



アイマスを単なるアニメとみなすのは笑止千万である。このコンテンツの解釈には日本アイドル史への抽象的理解が必須である。

しかし、メディアミックスコンテンツとしての「アイドルマスター」シリーズについて深く考察することは回避する。敢えて論ずるまでもないからである。私はその業界ではニワカだ。








古来から、グノーシス主義という概念がある。悪に満ち溢れたこの世を創造した「唯一絶対」の「悪神」への信仰を捨て、「外なる善神」への信仰を行う宗派のことである。




プロデューサーへの「信仰」は、グノーシス主義的であると定義付けられる。プロデューサーとは「世界観の構築」という観点において、絶対的な権力を有する存在である。アイドルとはプロデューサーの作品であるといってもあながち間違いではないかもしれない。アイドルという存在を超越した存在、「善」とされていた存在の背後にある、絶対的「善」への信仰。



このプロデューサー信仰が生まれる要因となったものとは、早い話が「アイドルへの失望」である。










歴史の話を始める。なお以下は、特定の人物・団体を揶揄・中傷などしている訳ではないのでお願いだから殺さないで。







かつて日本には「アイドル冬の時代」とよばれる時代があった。以下の記事はかなり昔の記事であるが、非常に良い考察である。
アイドル冬の時代とはなんだったのか - SKiCCO REPORT



かつて70年代において、アイドルは「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる存在だった。しかしなんてったって80年代中頃から徐々にベールが剥ぎ取られていく。冬の時代の到来である。



アイドルに対する幻想が崩壊し始め、存在そのものが「メッセージ」となるアイドルが徐々に姿を消していった。アイドルにより具体的な「使用価値」が求められていった。その結実がアーティスト化でもあり、「バラドル」の出現、すなわちタレント化でもある。アイドル的な売れ方をするアーティスト、という中途半端な立ち位置の者が出現し始めたのもこの時代であろう。


90年代から00年代前半には、「アイドル」という語は忌避された。時代遅れのものとなった「アイドル」に代わる「善」なる存在を社会が模索していた時代であった。現代のオタク文化の中心となっている「萌え」概念の芽生えは、この事とも関係しているのかも知れない。
声優や「女子アナ」のアイドル化も、恐らくこの時代に本格的な開始をみたものと思われる。社会全体にとって目に付きやすい、耳にしやすい姿や声の持ち主である肉体的存在に対し、その肉体的価値を超越した「メッセージ」性、すなわちアイドルとしての能力が要求され始めた時期である。これらの職業に従事する者にはもともと具体的な「使用価値」が備わっているということもあり、本来は「アイドル」という語の意味から乖離している彼らは、「メッセージ」の送信者として仕立て上げるには好都合であったのだ。





またこの時代の趨勢においては、小室哲哉つんく♂両氏などの活躍も大きな影響をもたらしている事にも触れなければならない。元々ミュージシャン、アーティストであった彼らが何百万もの裏面がキラキラと光るプラスチックの塊を市場に解き放ち、それらがすべて商品として購買されるという今から思えば想像もつかない状態を日本社会は目の当たりにしたのだ。「アイドル」的な売り出し方をしているにも関わらず誰々プロデュースという言葉が大々的に掲げられ、その言葉によって消費が進む。これほどかつての「アイドル」と「プロデューサー」の「メッセージ」送信者としての役割の逆転をみた時代はなかった。













そして2005年12月。
某48によってアイドルという語に「会いに行ける」という価値観が付加された瞬間、アイドルという語の価値が徹底的に暴落を開始した。




会う、という行為には大きな価値的効果がある。会うことにより、タテマエの上では絶対者であったはずのアイドルが生身の人間であったことに皆が気付いたのだ。アイドルの身体に、数秒間とはいえ接触することができる。芸能人やスポーツ選手などという特権階級の手にしか届かなかった存在が巷に溢れだす。定義通りのハイパーインフレーションの発生である。



そして今や「アイドル戦国時代」、冬の時代からは大きな転換である。大小さまざまなアイドルによる百家争鳴、自由競争、弱肉強食。ただ興味深いのは、冬の時代も戦国時代も、ある一人の「プロデューサー」によって始められていた点である。全てが「彼」の思い通りであるとすればなお面白い。








しかし、事実は小説よりも奇なり。「アイドルマスター」シリーズのスタートは、某48のデビュー直前、2005年7月である。




改めて述べるまでもなく、アイマスはアイドルの育成へ焦点が当てられている。これまで(虚像なれど)完全なる存在であったアイドルが、このシリーズでは「不完全な人間」であることが前提として描かれている。アイドルの価値は最早凋落を極め、無からスタートするということが公然の事実として語られている。失望と価値暴落という荒波を経て、現実のアイドルへの臣従を断念した層を上手く取り込んだのがアイマスであったのだ。
アイドルマスター」シリーズは、このような観点にある支持層を獲得したからこそ、今日に至るまでの人気を博しているとも考えられる。



アイドルマスター」のコンテンツにおいては、本来「メッセージ」の送信者たるはずのアイドルと実際の「メッセージ」送信者との間に、明確なる乖離が存在している。これまで(仮のものであれ)確固たる結びつきをもっていた「メッセージ」性と肉体との間に乖離が発生し、声優などの存在を媒介することによってのみ「メッセージ」が伝達されるコンテンツであること。このことは議論のし甲斐のあるものであるが、この点に関しては友人の別の記事における議論に任せたい。
なおその記事においては、「アイドルマスター」における「プロデューサー」の根本的な存在理由についても述べられているので是非とも参照するべきである。

7/31 アイマスにおけるアイドルとプロデューサー(プレイヤー)、アイドルと声優に関する考察 - 春香Pの雑記














軽量化された「善」と肉体的存在との乖離、そして「メッセージ」の送信者より上位に立つ「善」を創る者としてのプロデューサーへの信仰。歴史的経緯を整理してのみ初めて理解できるこの2つの観点にこそ、「アイドルマスター」のそれたる所以があるのだ。







③おわりに


眠い。朝の5時だ。

一日で書いた訳ではないが、それでも名ばかりの推敲に10時間はかかっていると思う。馬鹿である。そろそろ寝る。暑いので皆様熱中症には気をつけましょう。おわり。