民主共和国臨時政府執務室

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ぼくが本質的に構ってちゃんであることについて






本当はタイトルを『最近のライトノベルのタイトルがとても長いことにあやかって自分のブログ記事のタイトルを「一見クールに振る舞っているぼくが本質的に構ってちゃんであることについての考察」にしようとしたのに枠に入りきらないという事案に関する簡潔な報告』にしようとしてました(大嘘)。





突然のめんどくさい話だが、ぼくは構ってちゃんである。

このブログを更新する度にリンクを個チャで送りつける、ツイートする、挙句にやっぱ俺のブログ好きだわと連呼する。めんどくせぇ奴である。気持ち悪い。生理的に無理。清潔感がない。



ともかく、このブログは一応他人様の目に入るように書いているつもりだったはずだ。どんなに読者やアクセス数の少ないブログであろうと、基本的に全てこの世にあるブログは他者の存在・行為があって初めて規定されるものである。
ブログに限った話ではない。言語や文字、あるいは動画投稿サイトまでに至る「メディア」は誰かが何かしらの情報を伝達するために発達してきたものであるし、物理的にどのような媒体の「上に乗っている」かはここでの問題とはならず、発信者と受信者の存在によって初めて情報が「情報」として定義される。誰も読む人がいなかったら死海文書も大蔵経もただ紙の上にインクが載っかってるだけのただの何かである。この例え好きだわ。






「ぼく」にも同じことが当てはまる。「ぼく」が持つ「ぼく」という視座(つまり肉体的存在としての「ぼく」)は現状「ぼく」(の自我)にとって世界を認識するための唯一の手段であり、その「ぼく」はメディアを通じて情報を入手する。それと同時に情報を入手しているという状態そのものが「ぼく」の存在を「ぼく」自身に知らしめているのである。
当然言語情報以外の情報というものは山ほどあって、他人が経験したことのないであろう内的感覚もそれこそ山のようにあると考えられる。しかし、それだけでは自我として不十分である。「ぼく」と同種の生物らしい何かが(全ての他人が哲学的ゾンビであるという最も悲観的な可能性も含めて)「ぼく」に対しなんらかの情報を投げかけてくることが、「ぼく」が「ヒト」という分類の下に存在しているということを「ぼく」に認識させる(Daseinにする)のである。もしこのことが一切無ければ「ぼく」の自我は単にその辺に転がってあるはずの自然(Seindes)を延長したものに過ぎないだろう。全知全能の存在でない「ぼく」は自己の存在を自己定義できないからだ。



そして、自分には恐らく自我があり、しかも情報を伝達するためのある程度の能力がなぜか備わっているので、見様見真似で思ったことを発信するのである。自分の指を使って記述したこの文書の放つ光線が、恐らく誰かの網膜にブチ当たって視覚として脳で処理され、その誰かは「またコイツか、とりあえずまだ死んでねぇんだな」という気分になるはずである。はずであるし、そう信じている。

というのも、「ヒト」である「ぼく」がそういう気分になった経験があるからであり、演繹的に自分の経験を半分無自覚のうちに他人に押し付けているからである。




他者に対して投げかけた情報がなんらかの形で返ってくることではじめて、「ぼく」は「ぼく」を「再」認識できるのだ。






だからぼくは本質的に構ってちゃんだ。

ということで今度たぶん書評します!(切り替えの速さ)


おわり