民主共和国臨時政府執務室

Willkommen im Büro der Provisorischen Regierung der Demokratische Republik!

2021年度所信表明演説

今更年度始めか、というツッコミは全て受け流す。何故ならぼくは「年度」という概念のことをクソだと思っているからである。













ぼくは無政府主義者である(突然の告白)


なにゆえ突然このような危険極まりない主張を同窓の諸君や各方面の関係諸氏に向けてするかといえば、単に今日が泥酔した週末であるからに他ならない。ただぼくはニワカ無政府主義者である。それにしても、ブログの名前と記事のタイトルから完全に矛盾した書いててたのしい記事である。







はっきり言って、「政府」とはクソである。公の場とかビジネスの会話の中とか、いわゆる真面目な場でクソという語を使う奴は総じてクソ野郎であることはこれまでの人生でよく学習したところではあるが、それでもはっきり言って「政府」はクソである。クソ野郎がクソと言うくらいなのだから余程のクソである。こんなブログを食事中に見る人間なんぞいるとは思えないし、いたとしてぼくは其奴の意見を聞く筈もないし、そもそもぼくはカレーを食いながら「ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ、食べるならどちらか」という哲学的議論を様々な人々と重ねてきた人間である。問答無用で議論を進める。類は友を呼ぶってことだね。












①なぜ無政府主義者なのか


以前の記事でも述べてはいるが、ぼくは「ぼく」という精神がこの世で「最も崇高」(=only one)であり、「ぼく」が理解できる世界の範囲全てと確信している。ただその代償として、周囲の「哲学的ゾンビ」に宿る「精神」も互い(=each other)に対して「最も崇高」であることを否定できない。なぜなら周囲の「哲学的ゾンビ」が「ぼく」と同じ「精神」を持っているということを「ぼく」は否定し得ないから。即ちぼくは自分を含めた「人間的な何か」の「精神」を全て相対化している。
ぼくは特殊な器官を発達させるなり機械をつけるなり、人間を脱却して完全なエスパーが使えるようにならない限り、個人主義的な視座を離れることはできないのである。ぼくはぼく、きみはきみ。



つまり、この文章を読んでいるお前がこの瞬間何と思っていようとも、ぼくはその思考を止めることはできないってわけだ。




で、ぼくはこの個人主義的な思考回路を持ち続けている限り、まず「自由主義」にならなければならない。ぼくはこの世界に存在するあらゆる「哲学的ゾンビ」(これ以上先では「哲学的ゾンビ」とする意味もないしなんか嫌われそうだしフリック入力が面倒なので単に「他人」とします)の思考を止めることができないので当然干渉もできないし、まして行動を制限するのはもってのほかである。

最も高貴なるヴェネツィア共和国崇高な精神を持つぼくに関係することを除き、他人が他人に何言ってようとやってようと、ぼくは「ぼーっと眺める」しかできないしぼくにとってはしてはいけないのである。トロッコ問題に対してもぼくは明確に答えを持っている。仮にぼくがトロッコの進行方向を変えて5人を救い1人を殺したとすれば、確かに功利主義的には素晴らしい行為かもしれないが、ぼくからしてみれば事象に介入したことで1人を意図的に殺したことになる。トロッコの進行方向を変えたことで、ぼくは「5名の遺体の発見者」から「1名殺害の被疑者」に転落する。
大概にして、他人の行動に茶々を入れるとロクなことにならない。ぼくは幼稚園のころにそれを学んだ。












②なぜ「政府」はクソなのか




政府。人類の発明品の中で、宗教の次に人を殺してきた道具のこと(なおこの「宗教」には共産主義☭を含む)。少数の人間がその他大多数のすることなすことにちょっかいをかけるための組織。「徴税権」というやり方で窃盗を行い、「自粛要請」という名前の軟禁を強制する組織。



ひとのものをとっちゃいけません。
幼稚園で学ぶはずである。幼稚園でなくても、少なくとも近代的な資本主義社会、私有財産に価値が置かれている社会においては、ひとのものを取ったら刑罰により教育を施されるはずである。親なり先生なり何なりから、「ひとのものをとっちゃいけない」という価値観を刷り込まれて成長してきたはずだし、逆説的にそういう人間でなければ資本主義社会には参画できていないはずである。





ではなぜ、社会の中の一構成要素、一法人に他ならない「政府」は「ひとのもの」を勝手に奪うことができるのか。「政府」は幼稚園を出てないから「政府」には教育者がいないから。罰する者がいないから。暴力装置だから。本質的にヤクザと変わらないから。クソだから。

我々近代社会の人間はほとんどの場合どこかしらの国家、少なくとも国家的領域の中で生まれる。仮に今後何年かの間に宇宙で人間が生まれようと(突然鳴り響く「ツァラトゥストラ)、その人間は「人間」であるかぎりどこかしらの国家的領域に振り分けられることになるだろう。人間は物心ついた瞬間には、国家的領域に生まれて「しまっている」。収奪を行う「政府」の支配下(「保護下」と言いたい人もいることはよーくわかるし否定しない。ぼくは自由主義者だから)に生まれつき入って「しまっている」。



ぼくも漏れなく国家的領域に属している。政府による支配を受けている。自分の収入のうちのいくらかを勝手に引かれている。おかしな話である。だってぼくは「税金を納めてあげるよ」なんて契約を交わした覚えは一切ないもの。












ここまででも充分クソなのだが、よりクソな事象はもっとある。このブログにしては珍しく時事ネタを取り上げる。




おい、小池!有名な指名手配のアレ。被疑者死亡で終わったらしいね。





休業要請。それも書店で。

なんだ、きみ?、一体、びっくりして、泣いちゃった(さとちゃん構文)。やってることナチとか文革とかと同じだもん。







そもそも「休業要請」とか「自粛要請」という言葉自体が意味不明である。ぼくは感染したくないから大変不本意ながら飲み屋にもいかないし、帰省もせず大人しくしている。他人から押し付けられているわけではなくぼくの自由意志で行動している。
冷たい言い方だが企業も同様である。営業を続けたければ続ければよい。感染対策を取らないでクラスターが発生し、それで評判がだだ下がりしてもそれは自己責任であるはずだ。自由意志とはそういうものだ。対策を取って営業するもよし、休業するもよし。それを事情の分からないごく少数の人間の集まりである「政府」がどうのこうのと規制をかけようとするのは根本的におかしな話である。


しかも、よりによって今回は「書店」を名指しして休業要請だ。「書店ではクラスターは発生してない」とかなんとかという議論はどうだっていい。いや、重要だがそこはこの記事には関係ない。








「政府」が「書店」を「休業させた」という前例ができてしまった。
今後また大きな「緊急事態」が起きたとして、「書店」を「休業させる」明確な根拠ができてしまった。この「緊急事態」がユダヤ人なのか走資派なのかは知らんが、とにかく本を買うという権利に公然と「政府」は挑戦してきたのだ。

ここで聡明な読者諸君(ここは皮肉です。聡明な皆さまのためにあえて言っておきます)なら「電子書籍を買え」とか「本くらいでごちゃごちゃ言うなよ、パヨクか?」と仰せかと思うが、ことの本質は少数の人間のやることが多数の人間の権利を簡単に奪えることにある。よりによって書店、知性の源泉である。知的な営みをするというある程度の文明の維持に必須な権利をいとも簡単に奪える環境が出来上がった。ひとのものをとっちゃいけません。目に見える資産でも目に見えない権利でもいっしょです。



民主主義的な多数決で決まった政府なんだからいいじゃないか。至極ごもっともですね、ただあなたの意見はぼくの権利を奪ってます。幼稚園出てますか?








こういうことを書くと非常にマルなんちゃら主義とか共なんちゃら党みたいな左側から勝手に☭連帯☭されそうだがそういうことを言いたいわけではない。ぼくからするとむしろそっちとの方が馬が合わないのだが、それを書くにはこのブログの余白は小さすぎる(難問を残しながら)。いつか書くさ。










"Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely."
「権力は腐敗の傾向がある、そして絶対的な権力は絶対的に腐敗する」


Lord Acton アクトン卿(1834-1902)











③まとめ


書き始めは泥酔、書き終わりは二日酔いである。寝ちゃった。おはようございます。



あえて論理をガバガバにすることで意図的に反論を誘導しているともいう。演説なんてそんなもんだ。議論するならするでぼくは受けて立つ用意がある、酒が入っていれば






途中出てきた最も高貴なるヴェネツィア共和国はほんとのマジのガチで国の名前です。1000年以上続いた歴史上最長の共和国なので間違いないです。知らなきゃググれ。まあその国も大概なんですけどね。

おしり(クソとの関連として)