民主共和国臨時政府執務室

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緊急声明





アフガニスタン・イスラム共和国という国が滅んだ。
我々はつい何十時間か前、国家が消える瞬間を目撃した。





少なくとも、ぼくが物心ついてからは「国家が消滅する」という瞬間はなかった。ソビエトですら産まれたときには既に散り散りに爆散していたし、当時のターリバーン政権も「北部同盟」政権にとって代わられた(米帝により「代わらせられた」のだが)だけだった。これでだいたいぼくがどの辺りの年代に産まれたかよくわかるだろう。シリアを始めつい最近内戦に陥った国はいくつか目撃したが、「政権自体が消滅する」という瞬間はぼくにとって初めての経験だった。








このブログにおいても以前、9.11について言及したことがある。あの「ドラマのよう(=ドラマチック)な」事件から、なんやかんやで米帝はその報復としてアフガンに乗り込み、20年という節目を迎える今年に撤退を決め、そしてすべてがなかったことになった。完全な徒労、燃料と弾薬のムダである。儲かったのは軍産複合体くらいであろうか。



という感じでサヨク感丸出しでアメリカを叩いて満足する方もいらっしゃるであろうが、ぼくはそんなもんでは飽き足らない。







「民主主義」という概念は、人類にとって早すぎるということである。別にパシュトゥーン人は民主主義を理解できない劣等種だとかいうナチ公みたいなレイシズム剥き出しの差別をしたいわけではない。そもそもアフガンみたいなクソみたいに多くの民族がひしめく地域で「人種」とか「民族」とかいう概念を持ち出す方がバカなのだが、とにもかくにもアフガニスタンにも「民主主義」=democracyという概念は存在する。存在「は」する。するはずだし、しなければ曲りなりにも米帝の傀儡を20年も続けられるはずはないのである。70年以上傀儡やってる国の人間が言うのだから間違いない。






ではその「民主主義」とは何か。ぼくは定義を見出せない。だし、たぶん他の人も定義付けることは無理だと思うし、なんならそれこそ「曲解マン」ことサヨク連中なんてもっと無理だと思う。
強いて言うなら「状態」だろうか。とりあえずその辺で生きてる人間を一人か二人とっ捕まえて「公的に文句を言ったことがある」奴を見つけることができれば「民主主義」という「状態」なのだろう。









「公的に文句を言う」ということは、非常に危ない行為である。考えてみてほしい。クラス全員で文化祭の出し物を決めるとき、自分以外の全員が「カジノ」とかいう文化祭でするにはクソほどつまらない男子中学生しか考えなさそうな企画を通しているとき、自分だけ「人形劇」とか言ってみて御覧なさい。見事に翌日から総スカンを喰らい死ぬだろう。
人間にとって、社会の構成単位は基本数十人、どんなに拡張しても数百人単位が限界であるといわれる。「部族社会」という概念は人類の究極の発明である。ある共通の先祖にあたる男と女のセックスから産まれた一族、という自らのアイデンティティに最も訴えやすい物語を共有する「部族」という単位が、人間にとってもっとも居心地のよい社会なのである。これは「文明」が進歩しても同じだ。どんな集団にも属さず山奥なり無人島で孤独に暮らしている人間が毎日何百もの人間と会話している光景は想像しにくいだろう。現代でも、学区なり入学試験なり就業規約なり、共通の「物語」を共有する集団の中にいないと「社会生活」はできないのだ。




アフガニスタンに戻ろう。アフガンは部族社会らしい。それもそのはず、あの地域は完全な「空白地帯」である。周辺国に存在する民族集団がとりあえず全部入っている感じの地域である。ペルシャ系やらテュルク系やら、もう訳が分からん。詳しくはわからないんで自分で調べてくれ。
んで、そんな環境下で周囲の部族に対抗するためには自分の部族から裏切りものを出してはならないのである。とりあえず全会一致でカジノをやらなければならないのである。隣の部族はお化け屋敷をやるらしい。あっちの部族は喫茶店だ。客足で対抗しなければならない。そんな中で一人だけ「人形劇やりたい」とか言ってる奴がいれば何がなんでもそいつを黙らせるしかないのだ。学校なら最低卒業まで我慢すればなんとかなるが、人生で「卒業」とは是即ち死である。首を切るしかない。




そういう環境下で、自分以外の皆が「ターリバーン」のいうことに同調していたら?同調しているように見えたら?死にたくなければ黙って従うしかないのである。そんな状況でアホみたいなヤンキーが乗り込んでいって鉄砲を構えながらやれ民主主義だ自由だと押し付けたところでムリである。こっちには命がかかっているんだ。
アメリカ人」には「自由な移民」という共有されるべき物語がある。白んぼもニガーもタコスもチンチョンも(ネイティブはおいておく。彼らはいまだ「アメリカ人」ではない。米帝は今すぐネイティブを解放し正式に謝罪と賠償をしろ)、星条旗と国歌という物語を共有している。「アメリカ人」とは3億人の「部族」である。その部族は「自由」という出し物をすることに決め、これを輸出することを天命(店名)にした。さながら「マニフェスト・ディスティニー」といったところか。自由であるためにはある程度の「文句」を許容しなければならない。だから「民主主義」なのである。








ぼくは「民主主義」的に発言する。

「自由」を押し付けることは本当に「自由」なのだろうか。
「人形劇」を主張することはそんなに悪いことなのだろうか。
人類はいまだ「部族」を卒業できないのだろうか。








終わり。アフガンに平穏あれ。