民主共和国臨時政府執務室

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ぼくの戦争論~反戦論者=反権力者としての立場について~

タイトルを見て「なんだコイツ、反戦パヨク野郎か」と思ったネトウヨ兄貴たち(ここで「姉貴たち」については考慮しない。ネトウヨの女にそもそも女としての権利は必要ないからだ。反論できるならしてみろ、俺を殺してみろ高市)はまず落ち着いてほしい。ぼくはいまからパヨクたちを差別する。ひとまずは君たちと一緒の立場に居よう。ただこの文章の最後のほうで君たちも差別するけど。君たちネトウヨはバカだから先に述べておく。













人間の自然状態とは、「万人の万人に対する闘争」と表現するのが最適であると考えられる。この記事に反論しようとするのもまた同じ行動原理。隣にいる奴よりも上に立っていたいという心情が、人間にとって行動を起こすための一番「簡単な」動機になっているということは(酒に酔いながら記事を書いているという人間として最も深刻な機能不全を考慮しても)少し考えれば明らかである。実に動物的である。動物としての人間の、生存本能に結びついた至極卑俗で簡潔な動機。獣としての人間である。卑しい。汚らわしい。くたばってしまえ。所詮人間なんぞ獣の一種でしかないのだ。










この「隣人との闘争」という概念に人間の発明品:「集団」というエッセンスをトッピングしてみれば、どうだろう。実に面白い構図が出来上がる。先史時代から今に至るまで、ホモ・サピエンス間の闘争のうち「集団」以外の理由で死んだ個体はどれだけいるだろうか。ガロアとかいう個人同士の果し合いで死んだよくわからんバカ連中を除き、「殺された」個体はほとんどの場合集団同士の殺し合いの場で死んでいるはずだ。ちんけなそのへんのチンピラヤクザのかわいらしい抗争から独ソ戦に至るまで、ヒトという動物は「集団」という空想上の概念のために生命活動を終わらせることを悦びとしてきた。「革命的」な「英霊」という称号は死なないと手に入れられないものだ。









闘争とは、人間の最も根源的な欲求を満たしてくれる代物である。では、この闘争をもっともーーっとタケモット拡大させていけばもっと楽しいものが手に入るはずである。何を隠そう、世界大戦である。



戦争ほど楽しいものはないだろう。「今日は何をしよう」「昼には何を食べよう」「明日はどうやって生きていこう」、こんなくだらないことを考えなくて済むのである。昼どころか飯も碌に食えない環境なのだ。何も考えずに済む、幸せである。そもそも「何をしよう」など、考えている暇は一切ない。戦場で何か考え事をしながらボケーっと突っ立っていれば、味方でも敵でも銃弾で貴様のクソまみれの頭蓋をぶち抜いてくれる。ありがたいものだ。余談だが、戦場での死因のうち7割は「味方による誤射」だそうだ。
お前が思考してもしなくても、戦場でお前は死ぬ。根源的な欲求をすべて叶えてくれる場所が戦場だ。そもそもバカなお前なんぞ、単に「徴兵」された人間は歩兵以外の何物にもなれやしない。せいぜい運がよくて水兵だ。頭をぶち抜かれてくたばるか溺れてフカのエサとして自分の体を地球に捧げSDGsに貢献するかのどちらかだ。

もはや悟りの境地である。何も考えず、ただ命の奪い合い。命を奪った方も次の瞬間には死んでいる。美しい世界である。





なので、ぼくはお前をぶっ殺す権利を持っている、ということを書いてこのブログを終えることもできるがそれはそれで炎上して死ぬ方が楽な状況になってしまうのでひとまず留めておく。








で、だ。
最も問題なのは「左翼」のrhetoricである。マルクス以降の「左翼」=「共産主義を信奉する勢力」にとって、最も重要なテーゼは「階級闘争」である。マルクスにしろレーニンにしろ、毛沢東にしろ金日成とかいうなんだかよくわからん極東ロシアのチンピラ偉大なる民族の太陽にしろ、「闘争」は思想の根源をなす「活動」である。「左翼」は「闘争」しなければ思想が成り立たないのである。物理的な闘争、殴ったり蹴ったりである。彼らの教義に基づけば、俺たちを搾取してくる資本家をぶっ殺しても問題ない、むしろそうしなければならないのである。金日成を「左翼」に分類している以上ここでは国民社会主義、ナチズムを「左翼」に含めてしまうことにするが、金日成ヒトラーにとって、最大の敵とは搾取してくる日帝地主野郎や日帝巡査野郎(これらは北の教育現場で実際に使用されている言葉である)でありユダヤ人(とそれに結びついた国際主義=共産主義)である。闘争である。弱い立場にいる人間が強い立場の人間に対して抵抗して何が悪い。確かに言われてみればそうである。人間はこの手の「闘争」が大好きだ。歌舞伎での勧善懲悪ものなんぞそのものである。イランや最近のアフガンでは勧善懲悪省もあるくらいである。悪を滅することは最高の快楽なのである。


その「左翼」は、「反戦」を掲げ人を殴る。おもしれぇなお前。どんな理屈をこねくり回しても人をゲバ棒でぶん殴って殺したら殺人者であることに変わりはないのに、それが「反戦」のためであれば彼らにとって問題ないのである。
かつて、レーニン革命的祖国敗北主義とかいうよくわからん言葉に「帝国主義戦争を内乱へ!」というスローガンをくっつけ、内戦を起こしトータルでおよそ270万人が死んだ。270万である。数字の規模感でいえば第二次大戦での日本の犠牲者とどっこいどっこいである。
ロシア内戦以外の例だって腐るほどある。国共内戦も然り。そんなこんなの歴史的経緯を踏まえた「共産主義」は確実に人を殺すのである。反論はこの場でいちいちしない、全部論破できるからである(ひろゆき並の感想)。「反戦」なんて誘い文句は余りに虫のいい、支持獲得のための詭弁でしかない。自分たちの掲げる「正義」のための犠牲なら一向にかまわない、敵の死体なら万々歳。人を殺す「革命」が「反戦」という言葉と結びつく。こわい。巧言令色鮮矣仁。



偉大なるレーニン主教同志の金言である。

戦争反対(平和演説)は、労働者階級をだます手段の1つだ。

Vladimir Ilyich "Lenin" Ulyanov







ただ、人殺しの理屈が「革命」のためでも「祖国」のためでも変わりないということだけは言っておきたい。軽い言葉の裏で何万も死んでいく。右翼にも左翼にも反対、自らを縛るすべてのチカラに反対。それがぼく。