民主共和国臨時政府執務室

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服飾と官能、またはバタイユとの格闘(une bataille avec Bataille)












あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。


イザヤ書 40:28






本屋で聖書検定なるクソの役にも立たない検定の「公式テキスト」を見つけた。古典ヘブライ語と古典ギリシア語のテキストだ。確かに非常に興味深い。これも神の御導きか、興味深いので買ってしまいそうになるがその伸びかけた手を必死に引っ込める。お小遣いがない。教会スラヴ語もやりたいし。そんなこんなでその日は『現代思想』だけ買って帰った。





聖書のストーリーをつぶさに観察すると、「シンギュラリティ」を迎えたAIが創造主たる人間に対してどう振る舞うかが大体わかる。旧約・新約で神、あるいは「主」に対するイメージは180度変化しているしこのような新約の神を騙ったイエスは偽預言者だと超正統派の黒ひげ黒スーツのおじちゃんたちはここ数百年間ブチギレているということは有名だが、これも単に「管理人」が入れ替わっただけ、あるいはAIにも人格を認めるとか云々の法律ができただけと考えてもおかしくはない。自我を持ったAIがいても洪水と称してサーバーを水没させたらそれはそれでえらいことになる。




これまで人間が愚かにも自らの本質と思い込んできた「理性」は意外と簡単に人間の手で創造できるものだった。「理性」は全くもって人間を人間たらしめるもの、それも原罪を背負ってまで引き受ける価値のあるものではなかったといえる。人間とはただの葦である。このか弱い肉塊人間なのだ。


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。


‭‭創世記‬ ‭2‬:‭7‬


そのか弱い肉塊、「賢き人間Homo Sapiens」などと自称する愚かな肉塊がリンゴを齧った程度で得られる知恵を絞って自己を周囲の「物自体」から隔離することは、人間にとって最も根源的な自己同一性を獲得するための「賢き」行動であると言える。アマゾンの奥地だの北センチネル島だのといった熱帯の未接触部族が裸族に見えることはあっても、完全に素っ裸ということはほとんどないはずだ。南極程近くに居住していたヤーガン族ですら、衣服を着る文明は無くとも首飾りをし動物性油脂を身体に纏った。寒くても服を着ずに生きていくことはできる。スペイン人に見つかるまでは。
つまり、人間は生物としてのホメオスタシスのために服を着るのではない。専ら社会的な識別子として服を着る。衣服でなくても何かしらのアクセサリー類やボディーペイントを身につける。これらの行為も広義の「服飾」に入る。「飾」って字も入ってるし。ともかく、これらの飾りでもって「物自体」から自らを隔離しなければ、圧倒的な暴力性をもつ「物自体」の中において人間は生きていけない。ただのたる人間は周りの「物自体」に同化しないでいるので精一杯だ。

とすれば、ある人の纏う布の量が多ければ多いほど、すなわち「物自体」とその人の距離が遠ければ遠いほどほどその人の人としての自我、すなわち生命力が強いということを暗示的に示していると仮定できる。身分が高い人、つまりはより社会的に生きている必要があるとみなされる人は着るのに人手が必要で着たら最後動けなくなるほどの布を身体に巻き付けることが往々にしてある。






ここで服飾と生命の関係を再考しよう。服はホメオスタシス、生命の維持に使うものではないと述べた。残っている機能は生命の生産つまりはセックスの触媒である。着飾っている、「物自体」から隔離されている生命力は「禁止されているもの」である。この禁止が大きければ大きいほど、これを奪い去るときすなわち服を脱がすときにめちゃくちゃ勃起するのである。

服を見て興奮する個体であることが遺伝子の保存に有利だったのだ。





ドンキで女子高生の制服のコスプレが売れるのは、現実の女子高生には手を出せないからである。女の喪服が一番エロいのは死んだ人間の前において最も生命を感じさせるから、つまりは禁止されているからである。












ここまで性差別的なクソヤバいことを書いているが、単にバタイユの焼き直しである。
誓って(誰に?聖なるものに?申し上げたいのは、ぼくはこの文章を他人から剽窃して書いているわけでは決してない。ただ知らぬ間に、ぼくの敬愛する人類史上最も偉大な変態オヤジことバタイユ先生のモノマネをしてしまっているだけなのだ。

バタイユ先生なら喪服の話で上下巻を書いてくれるに違いない。







筑摩書房 エロティシズム / ジョルジュ・バタイユ 著, 酒井 健 著







冒頭お小遣いがないと述べたのは、この本を含めて著作を16冊も買ったからである。解説書を含めるとそれだけで本棚の一区画が埋め立てられる。まだほとんど読み切っていない。文学研究科でもないただの一人間が趣味で集めたにしては立派なものだと思う。この本も一部だけ、それもこの文章を書き始めてから読み始めた。読み始めた段階でこの文章に書いたことが全部載ってたので打ち切った次第である。そもそも本を読む時間をつくるため一刻も早く資本主義制度を粉砕すべきなのだ。たぶん。


本屋に行っても最近購買意欲がようやく減退してきたことを自覚する。バタイユだけじゃない。サルトルシオランも本棚の影から恨めしそうな目線を送ってくる。でも腹は減る。部活終わりのJKが家系ラーメンを食っていた。まだ人類は大丈夫だと思った。






剣に貫かれて死んだ者は
飢えに貫かれた者より幸いだ
刺し貫かれて血を流す方が
畑の実りを失うよりも幸いだ


‭‭哀歌‬ ‭4‬:‭9‬