民主共和国臨時政府執務室

Willkommen im Büro der Provisorischen Regierung der Demokratische Republik!

相互理解の不可能性について








何かを書かなければ死んでしまう。しかし、いざ立ち向かうと筆が進まない。いっちょ前に文豪面をしてみる。今日の御供はブランデーのソーダ割だ。まだまだ夜は長い。





その昔、むかーしむかし。このブログを開設したばかりの時分である。「就活」だの「学部生」だの、今から思えば積極的な自己開示を行っていたものである。そこから数年。ぼくは人生の夏季休暇たる学生時代を終え、一般的なクソ文系学生と同様、賃金労働者として「余生」を過ごしている。よくもまあ無駄な時間ばかり過ごしてきたものだ。後に残ったのはボロボロの肝臓とHoI4に費やした2,300時間とこのブログのクソみたいな記事だけである。あとはこの「余生」で過去の人類が築いてきた社会とかいう喜劇の一小道具として使い潰され灰になるだけである。お疲れ様でした。




あーだこーだと書いているが、要はなんにも残っていないのである。からっぽ。空虚。文句なしの空集合φ。
ぼくには何もない。ぼくがこの世界に残したものは何ひとつないのだ。ぼくが唯一「生産」できるウンコも、発達した現代文明の前にはトイレから下水に飲み込まれ、塩素をまぶしてどこぞの海にブチまかれてフカのエサと堕ちていくだけである。冷静に考え直すと恐ろしい事態である。これまでぼくに流れ込んできた時間と親の金をすべて合計して、出来上がったものがウンコ製造機である。

そもそも人類に何かを生産することはできないのだ。産業を第一次から第三次まで分類する(中学受験生しか覚えていないナンセンスな)方式を思い出せば、農業・漁業・酪農畜産業・林業といった「第一次産業」以外に何かを生産しているというイメージは思い浮かびにくいだろうし、ぼくもそう思う。しかし、その第一次産業も元を辿れば収奪に過ぎないものだ。コメもサバもミルクもヒノキも「いかに多く獲ってくるか」が問題なのであり、サバを「人間の手のひらの上で創造」することはできないからだ。第二次、第三次産業も同様である。金華サバの押し寿司も、人間が生産=創造したものではない。目の前で光るビルもそこに押し込まれているコンピューターも、どこかの誰かがかつて分子を入れ換えてつくった物が残っているだけである。人間は神ではない。無から有を「生産」することはできない。所謂「生産」と雖も、所詮は分子の入れ替え作業に過ぎないのである。













人間とかいう種族の生命にはこの事実すら満足に理解できず、自らの行動に他者にとっての何かしらの価値が存在すると勘違いしている個体があまた存在しているという。これほどの狂気はないだろう。人類でこの事実を最も正確に認識しているぼくは、同時にこの事実を最も正確に引き受ける存在である。「引き受けるべき存在」ではない。ここに「…べき」「…べきでない」という定言命法的倫理は適用されない。この判断基準は「他者」と比較=価値の優劣をつけることが出来ないからである。



いや、人類にこの事実は難しすぎるのかもしれない。シラフという狂気じみた状態で日々何かを「創造している」妄想を繰り広げる空虚さを理解するのに、薄い体毛でビルの森に生息する全長1.5~2m前後の直立二足歩行するサルは耐えられないのだ。空虚なぼくがこれまでに存在した人類のうちに正気を保ったまま死んでいった連中の考えたような言葉を入れ換えて「お前らも同じウンコ製造機なんだ」と無駄な時間を費やして訴えたところで、確実にサルどもは理解しない。ただ実際にそうである。理解はされない。こんな無駄なブログなんか書いてないでさっさと寝てろと言われるのがオチだ。だからこの文を書く。お前らも無価値なウンコ製造機だ。




















あーあ、こんな面倒なこと考えずみんな仲良く暮らしている美しい世界みんなといっしょに仲良く労働したいなー!そんなユートピアを描いた小説ないかなー!
ってことで次たぶん書評します。ここまで前編。では。