民主共和国臨時政府執務室

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高島鈴『布団の中から蜂起せよ』





布団の中から蜂起せよ - 株式会社 人文書院













書店に赴くという行為は、ぼくにとってただ脚の筋肉の運動を意味するというわけではない。そもそも書店というところには、本を並べて売る場所という以上により重要な意義が内包されている。




書店とはナンパの場である。
知識人ぶってこの文章を書いているが、所詮は大卒の賃金労働者である。ただ文字の読み書きはできるので、(ありがたくも存在する数少ない)休日には暇つぶしも兼ねて書店に赴き棚を眺めるのが趣味である。

「先輩」とかいう存在しうる日本語の中で最も穢らわしい概念で形容される職場の人間からはよく「本を買うならkindleでいいじゃん」との金言を賜るのだが、そうじゃねぇんだよな。Amazonは確かに便利だ。この冒頭でリンクを貼るくらい。だが、そこで買えるものは自分が欲しいと最初から決めていたもの、そしてAmazonによって欲しいと思わされたものだけだ。書物との出会い、もっと言えば誰かからの声の投げかけを受け止める行為はそこにはない。
ここでいう「声の投げかけ」には明らかにぼく特有の用法がある。この文章が入試で出ていたらここが線を引くところ。かつてぼくも受験生だった輝かしきころこんな文章を見かけた記憶がある。すなわち、書籍と電子書籍は全くの別物であり、そこには厳然とした身体性の差異がある。書籍にはまさに実際の現実存在としての紙の上にインクが載って、なんらかの記号でもって意思の伝達をしている。これほど目を背けたくなる事態は存在しないだろう。己の書いた文章をわざわざ編集者なる人間に読ませ、工場で印字し製本してトラックに乗せて運び書店の店員がそれを売る(グーテンベルク以前ならここの間に一字一句書き写すという苦行が待ち構えているのだが)という、まるで銭湯に入ったかのような露出の過程が存在している。これほどの工程を踏んでようやく受肉(つまり「身体性の獲得」)をした文章でもって訴えたいことがあるという事実がぼくの練習問題の文章の作者を唸らせた。こんなふざけた名前のブログ如きでオナニーした気になっている文章とは覚悟の入りようが違うのだ、覚悟が。


そんなこんなで受肉した書籍、しかもそれなりに新しい情報を載せた書籍が書店には信じられないくらい大量に並んでいるのだ。これは決して誇張ではない。新幹線ホームのキオスクならいざ知らず、たとえどんなにクソど田舎のイオンモールに入っている書店でも、英和辞典から歴史小説、ダイエット本やら人間革命やコミックなどといったところからマップルくらいまでのラインナップはあるのだ。全部読んでいたらマジで一生かかる。ちょうど人類皆を愛するには磔刑で命を落としてしまうくらい時間がかかるように。
そしてぼくらは全人類を愛せるほど神がかってはいないので、悲しい哉情報を取捨選択するしかない。その情報の取捨選択がうまくできる「先輩方」はいいとしても生憎ぼくはそこまでの判断力を持ち合わせていないので、Amazonはあまり使わず書店に直接赴いて徘徊するのである。









それにしても、書店での徘徊ほど心地のよいものはない。徘徊しすぎて店員に顔を覚えられるという最悪な事態が待っていることは確かだが、それを差し引いても書籍の海を泳ぐことはワイキキで泳ぐより心地いい。なにしろ、自分の興味のないジャンルの棚に読みたい本が置いてあるのだ。一応「哲学」みたいな棚を目指して泳いではいるものの、フヨフヨと数学やら自己啓発やらコンピューターやら天文学やら芸術やら、あちこちに流されている。この本は「社会学」で見つけた。どうも「社会学」とかいう領域には昔から苦手意識というか食わず嫌いというか大学の某「新しい学生運動」組織に勧誘されかけたというかでとにかく嫌いなのだが、その「社会学」の棚に置かれていた。表紙も帯も真っ黒で挑発的でかっこいい。このオレ様に「死なないでほしい」だと、舐めやがって。
そうして運命的な出会い、つまりナンパをして出会ったのがこの本である。











ありがたいことに、最近行く本屋のすぐ近くにはコーヒー屋がある。普通のチェーン店だが清潔で雰囲気もよい。その日の予定は全くないのでそこに入って数分前に買ったこの本を広げてみる。
するとぼくの言いたかったことがすべて書いてあり、それでいて言いたいことが何一つ書いていない。それもそのはず、ぼくは一応多数派的「男」(ここでジェンダー論の議論はしません。酔ってるんで)であり、なんだか色々書いてあるこの本の前半部で問題となる「女」にとっては絶対的な加害者であり敵対者である。ぼくが女を殴ったら死刑だが女はぼくを殴り放題だ。そうやって育ってきたし実際女から殴られてきた(だから中学から男子校に逃げたということもあるのだが)。だから、著者のいうことは絶対に「理解」してはいけないのだ。敵であるぼくが著者の言い分を「理解」する構造そのものがクソである。

そして著者は、そんなぼくらを『殺してやる』と叫ぶくらい『死なないでほしい』と願ってくれるのだ。『殺してやる』。凄まじいほどのエネルギー照射。著者はこの世界に対しぼくが見たことのないほどの熱量で関与してくれている。別に「お前を倒すのはこのオレだ」的なツンデレではない。本当に『殺してやる』と思って下さるのだ。日々「こいつ死なねぇかなァ」と思うだけのぼくとは完全に真逆である。無限の愛。これだけの愛があればこの世界に立ち向かっていくのも無理はない。なにしろ愛と勇気はあんぱんですら友達にする。





なんかこう書くとすごく怖そうだが、非常に読みやすいエッセイ集である。映画の素養があるともっと楽しめる本かもしれない。2時間ほどで読み終わり、結露でグッチョグチョになったストローの袋を丸めてコーヒー屋を後にした。外はクソ暑い。














かつてぼくも自らを無政府主義者であると定義したが、この際そのような定義はどうでもよいものである。政府があるとかないとかいう話の前に、そもそもこの愚かな種族の一個体としてぼくの意思とは無関係に産み落とされてしまった以上あとぼくはこの愚かな種族の滅亡を熱烈に期待しながらテキトーに日々生きていくしかない。ぼくがここで何を書いても絶対に世の中は変わらない。このブログを読んでいる暇があったら少しでも「生産性」の高い行動に従事すべきである(とお前の周りの人は思っている)。だが、この本の著者はそんな「人間」ですら愛してくれる。お前にも「死なないでほしい」と言ってくれる。
ぼくは今のところ匿名で著者に「アウトレンジ攻撃」を仕掛けているだけだが、いつかは全部の答え合わせを夢見るかもしれない。あるいは永久にないかも。おわり。