民主共和国臨時政府執務室

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「推し」論

Two Treatises of Idol - 民主共和国臨時政府執務室






自著を参考文献として良いのは一流の研究者だけだ。なのでこれからぼくは一流のアイドル哲学者になります。








①「ファン」について

「ファン」という語がある。ひろく扇風機"何かを強く愛好するもの"と解されているだろう。語源は英語のfanatic。だが偉大なる我らの太陽、民族の父であるWeblioによれば意味は、

熱狂者,狂信者

だ。


何者かの「ファン」は本来、その何者かに熱狂している狂信者である。




"狂信者"を字義通りに解釈すれば、「狂ったように信じる者」であり、あくまで"信者"の一形態、一状態に過ぎない。


前掲の記事でも述べた通りアイドル自体にある存在意義は

社会的「善」の場の提供にある

し、その「ファン」はアイドルへの追従を通じて社会的承認を得ようとする者、あるいは得ている者と定義付けることができる。
現代語のファンやマニア、あるいはオタクという語に若干のニュアンスの違いがあることは承知しているが、これらをまとめた「ファン」はおしなべて"狂信者"と呼べるだろう。ある価値観への盲従によってのみ、これら「ファン」たる事ができるはずだ。





②「推し」について

「推し」。この絶妙な感じを持つ言葉。

狂信者、すなわち「信じる」という語の意味と最も異なる点はどこか。それは、主体が自己にある点である。


「信じる」という行為は信じられる対象が存在して初めて成立する。その信じられる対象は多くの場合、自己よりも上位の存在である。この文脈では「何か嫌なことが起こらないことを信じる」という用法では使われないことは明白であるので、ここでは自己より上位の存在に帰依し、判断の一切を放棄するということを「信じる」という語で確定的に表現しよう。




では「推し」はどうだろう。「推す」という語は他動詞。本来であれば「他人に薦める」という意味も含まれる。つまり、自己が他者に推薦するというのが本来の語義。しかし、この記事の文脈では他人へのアプローチという意味は消え、「自己」の存在だけが規定される語となっている。本来の推しという言葉の意味がそのまま使われていれば「同担拒否」という語なぞ生まれるはずがないのである。ともかく、自己の判断で何か(ここではアイドル)を取捨選択しているという状態のみを指す。




整理しよう。
「信じる」には自己の判断がない。「推す」には自己の判断がある。





③歴史との関連について

アイドルが「信じる」ものから「推す」ものに変化したこと。
前掲の記事にあるように、これには歴史的な経緯が関係している。




2005年にアイドル戦国時代が到来して以降、アイドルの価値は暴落した。アイドルはこの時から一般人にとって手の届く存在になった。当然、それまでのアイドルに内在していた神聖性は消失へと向かい、彼ら(彼女ら)と一般人が同種の生物であることが広く再認識された。
つまり、アイドルは自分にとって取捨選択ができるものと認識されるようになった。またアイドルを選ぶだけでなく、自分から切り捨てることもできるようになった。さながら民主国家において国民が政治家を選択できるようなものである。トップの首が飛ばない国家はどうやっても"民主主義"ではないんですよ(北西方向を見ながら)。


アイドル冬の時代手前まで、アイドルはウンコをしないという神聖性を帯びていた。この時代には、「誰のファンになるか」までは選択できても他のアイドルとを比較(あるいは物色)することまではできなかった。あるアイドルの代替となるアイドルが存在しえなかったからだ。



「推し」の語が使われ始めた時代を本格的に調査する研究が待たれる。おそらく、推論どおりこの15年の間に使われ始めているだろう。




④まとめ

最後の「まとめ」に適当なことをいうのにはまってます(適当)。
こういうことを考えながら生きていく生活ってつらいね。アイドル哲学者になる夢は諦めます。次の夢は知らん、とりあえずまた記事を書きたい。