民主共和国臨時政府執務室

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シンデレラガールズ論








過去の記事を読み返し感傷に浸っていた。歳をとったせいかSentimentalismeになっている気がする。おセンチ(死語)な日々だ。久々のアイドルマスター論である。








Mobage上にて展開されていた「アイドルマスター シンデレラガールズ」はつい先日、2023年3月末をもってその11年半の歴史に幕を下ろした。サ終。ああ、サ終。このゲームを始めるためにMobageアカウントを作ってなんだかんだ9年くらいにはなるだろうか。まだこのコンテンツが「モバマス」と通称されていた時代だ。公式に「デレマス」という言葉が使われる前のお話。ましてやデレステなどという最近のゲームは全く知らない。
この数年はログインに使っていたメールアドレスもパスワードも忘れていたので最後にどんなイベントをやっていたのかなんてことも知らない。ただ、ぼくは最後の瞬間まで黒川千秋Pを名乗っていた。ついに声優のつかないまま本家のサ終を迎えた黒川千秋のプロデューサーである。




鑑賞行為がプロデュースとみなされうるのは声優サイドによるそれらの行為のプロデュースとしての認定が主な理由であるだろう。鑑賞を通して自らがプロデュースに携わっているという意識を持つ人と持たない人の違いがこれを理解する大きなヒントになる。前者はなんらかの機会において出演陣がそれらの行為をプロデュースとはっきり述べるのを耳にして自覚を深める一方で、後者はその機会を持たないがために単なる鑑賞者・消費者に留まる現象である。つまり権威者としての声優(その正当性の源泉は後述)による認定により作り上げられる「意識」こそが鑑賞をプロデュース行為に昇華させるのである。

7/31 アイマスにおけるアイドルとプロデューサー(プレイヤー)、アイドルと声優に関する考察 - 春香Pの雑記





さてここで、かつてこのブログでも取り上げた友人の偉大な記事をもう一度検討してみよう。本来は最初の記事を書いた段階で詳しく検討すべき問題であったのだが、いかんせん体力と酩酊の限界であったため実現しなかったものだ。Two Treatises of Idol - 民主共和国臨時政府執務室

ともあれ。


ここで春香Pは

権威者としての声優

と表現している。これは彼の従前(それこそぼくがモバマスを初めたころと言ってもよい)からの主張であった。中の人たる声優により直接的に音声によって「認定」されて初めてプロデューサー行為が成立するということだ。



彼の主張によれば、アイマス世界におけるプロデューサー(言わずもがなメタ的にはプレイヤー)にアイドルを売り出す「プロデューサー」、ここでは「善」つまり神聖性の提供者としての認識(=赦し)を与えうる存在は声優、すなわち歴とした生身の人間であるとされる。だがここで非常に重大な疑問が生じる。すなわち、声優の当てられていないアイドルのプロデューサーは「プロデューサー」の認識を持つことができないということである。これは、ぼくが序盤に述べた「ぼくは最後の瞬間まで黒川千秋Pを名乗っていた。ついに声優のつかないまま本家のサ終を迎えた黒川千秋のプロデューサーである」というぼくの意識とは完全に矛盾する。


この認識の相違はアイドルとしての神聖性をどこに見出すかという神学的な視座の差から発生する。すなわち、彼はアイドルマスターのコンテンツにおいて神聖性はキャラクターとしてのアイドル及び声優や周辺コンテンツを含めたキャラクターに付随する諸要素から生じるとみなしているのに対し、ぼくはアイドルの神聖性はアイドルのみから生じると考えている。

前掲のぼくの記事で述べたとおり声優は最早アイドルの神聖性の「依代として社会的に消費されているのだが、これはアイドルと声優は対等でないということを示している。神聖性がアイドルより生じるということは異論の余地はないものの、それは彼がいうところの「権威者としての声優」を必要とするということではない。





なお、彼の主張には当然賛同できる点もある。彼によれば、アイドルマスターのライブイベントにおけるエピソードとして

今井麻美は本人のブログにおいて、7th anniversaryのライブにで約束を歌ったのは私でなく「あの人」であった気がすると回想している。

という興味深い実例を取り上げている。これはすなわち声優はあくまで声優本人でありアイドルとしての意識はないことを示唆している。先日死んだイタコ芸人のように神聖性にとって生身の人間としての意識は介在しないのだ。






なぜここまでクソほどどうでもいい細かな内容を書き連ねているかといえば、人類が1,000年以上前にヨーロッパで同じようなことをやっていたことを思い出すためである。大シスマ、東西教会の分裂だ。以下ぼくは信者ではないので間違っている点があったら温かい目で魔女裁判にかけてほしい。

「分裂」には教皇の立場だとか坊主が結婚していいかとか色々な問題があったが、中でも神学上において分裂の決め手となったものがフィリオクェ問題である。

迷信深い異教徒のぼくらには馴染みのない問題なので簡単に説明する。東西とも三位一体説(父=God、子=イエス・キリスト、霊は「別だけど同じ」)は信じているが、その神聖性としての聖霊東方教会では「聖神゜」)の生成に関して認識に致命的な齟齬が発生してしまった。ギリシャ語で書かれた論文を訳す時、ローマ以下西側では聖霊は父より、子からも発する ex Patre Filioque procedit」としたのに対し、東側は聖神゜ は父より発する」であるとした。西側の「子からもFilioque」は元の文章には入っていなかった。さてどうしましょう、というおはなし。




こうして見てみると、アイドルの神聖性がどこから生じるかという問題はフィリオクェ問題と全く同じ構造を有していることがわかる。この1単語をめぐってキリスト教世界は1,000年以上真っ二つになったのだ。この世界観は結局のところヨーロッパを二分し、巡り巡って冷戦構造として世界を二分し、挙句の果てに目下の戦争を産んだ。彼とぼくとの間にあるアイドルマスターへの認識の差異は、この世界を二つに引き裂いてしまうかもしれないのだ。











とまあここまでギャンギャンと喚いてきたのだが、ぼくはおバカなので重要なことを見落としていた。彼は先述の記事の冒頭で

その後、私の認識は、ほかのPの皆様と話す機会を得たり、無印の展開に出会ったり(再発見)、また、ミリオンの展開の進展等を経て、パラダイムシフトとでも呼ぶべき変化を見ている(特に、「プロデューサーという意識」に関する部分については、全く今の認識と異なるところでもある)。

とすでに申し添えている。いわんや今になってはどう考えているのか皆目検討がつかない。なにせ彼とはもう5年近く会っていない。友人代表みたいな雰囲気で度々引き合いに出してはいるが、結局のところお互いにとって最優先の友だちではないのだ。彼が今頃どこで何をしているかはわからない。羅生門の梯子を降り闇夜の朱雀大路に消えていったのかもしれない。お互いに。