民主共和国臨時政府執務室

Willkommen im Büro der Provisorischen Regierung der Demokratische Republik!

E. I. ザミャーチン『われら』

われら - 岩波書店


ぼくは一年で一冊しかマトモな読書をできないのかもしれない。いや、それでもマシな方だ。だってぼくは資本主義的生産様式の奴隷に過ぎないのだから。読書する時間を与えられている奴隷など本来は存在しない。ぼくはその点特権階級に属しているといえる。












自由を捨てること、即ち文明を享受することは非常に快適である。火でもって柔らかい肉を食し闇を照らし暖を取ることはまさに人類を「人類」たらしめる活動である。だから、ひとたび人類が自ずから放つ光、誰かの残業によって生まれるビル街の「美しき」光源を失ったお前はまさに満天の星たちに向かって真っ逆さまに落ちていく。お前は「無限遠の」彼方の天球に汚らわしく無秩序に貼り付くオリオンの三連星に向かって落下していく。これまでお前を「母なる地球」に縛り付けていた重力のベクトルはたちまち反転して斥力と化し、お前の頭上の谷底にお前を放り込む。まるでスパルタが赤子を捨てるように。
直視するにはあまりに美しすぎる100万ドルの光を放つ、吐瀉物まみれで常にサイレンが鳴り響く街の暖かさに包まれて育ったお前は、その深淵への落下が恐怖でたまらない。お前は落下するし、それに抗えない。抗おうともしない。誰かの残業代100万ドルが、あるいはその100万ドルの消尽の結果として現れる急性アルコール中毒のバカを運ぶ救急車の赤色灯とサイレンとが、お前の爪先を辛うじて路地裏に秩序だって落ちている吐瀉物に繋ぎ止めている。その美しき世界があるからこそ、お前は「幸せ」に生きていける。お前は幸せだ。だってお前は火を起こせないだろう?














さて、本の内容について。
この「 最も悪質な反ソ宣伝の書 」の言いたいことは割と序盤に出てくる。すなわち、

『不自由の本能が古来本質的に人間に固有なものだということである』



まさにその通りである。

20世紀の鉄道時刻表が古代文学最大の記念碑的作品として伝承されている国、「単一国」。一年31,536,000秒の予定が(ほぼ)すべて「時間律法表」により規定されたこの世界で、義務化された幸福を享受しながら数学者たる主人公は生きている。理性は、「恩人」は決して間違えない。論理が全てを規定する。論理こそ、数学こそが美しく、古代の「インスピレーション」とかいう癲癇を利用しなければ産み出せなかった音楽やら何やらは雑音にすぎない。全ては合理的に。人類は宇宙へ歩みを進めていく。



















心にも思っていないことを言えないたちなので筆が止まってしまった。所謂ディストピア小説である。社会主義を究極に推し進めた世界。エクストリーム社会主義である。わざわざご丁寧に「最も悪質な反ソ宣伝の書 」などと罵倒してきたことは、逆説的にソビエト連邦という国はこの本の世界観を良しとする国であったということを証明しているといえる。人間の体格に基準(ノルマ)を設け、セックスの時間も管理することで兵士と科学者を大量生産しファシスト共を粉砕したかったのかもしれない。お決まりの大量突撃と戦略核の乱射で。それを痛烈に批判されてしまえば、人間ならば無駄な時間を費やしてでも罵倒したくなってしまうだろう。気持ちはよくわかる。













ただここまで読んで、「ソ連こわいねー」では終わらない。終わってはいけない。著者が述べていないことからこそ、読み取るべきことがある。


先述の通りこの本の題材は「エクストリーム社会主義」の世界、合理性を突き詰めた世界である。しかし現代において、人間に合理性を要求するのはむしろ「資本主義」社会の方ではないか?

社会の構成要素それぞれに「生産性」なるものさしがあてがわれ、それで測られた量に応じてそいつの食える飯の量が変わる。住める場所も変わる。得られる権力が変わる。「生産性」の高い人間は、霞が関議員会館でふんぞり返ることができる。中にはドバイから帰ってこないバカ暴露系YouTuberもいるが。しかしだからこそ、「障害者には生きる価値がない」だの「性的マイノリティに生産性はない」だのといった言論が罷り通るようになる。後者の発言をした有名な人物に非常に生産性の高いぼくらの代表がいることをここで思い出しておこう。なにしろそいつは人間の中でも人間を胚から生産できる類稀なほど生産性の高い種族に属しているのだ。そいつを組み敷いて後背位からファックしてみたい。やっぱりいいや。閉経してるし。






そして、そんな資本主義社会の生み出した21世紀の「時間律法表」こそスマートフォンである。



はっきり言って、スマホほど便利なものはないのだ。朝起こしてくれる。電車を調べて駅まで連れていってくれる。電車賃も払ってくれる。音楽も聴かせてくれるし映画も見せてくれる。訳のわからない発狂した文書を保存してくれる。


だから、そんなあなたのお役に立つためにあなたが毎日何をしてるのか情報を記録しておきますね。ご覧になったサイトの履歴も保存しておきます。今日何にいくらお支払いになったか、どこからどこへ移動されたか、何歩歩いたかも覚えておきます。そしてその情報は一元的に管理いたします。そうやって得た情報を元にご提案いたします。明日はこれだけの歩数を歩きましょう。こちらの商品はいかがですか?こちらでお支払いしておきますね。











うっせぇわ。お前に指図されてたまるか。いや、お前の裏にいる「恩人」のいいなりになってたまるか。

「恩人」に特定の人間としての物理的存在は必要ない。スマホの向こう側。スマホを通して一年31,536,000秒常に繋がれるようになってしまったことが「恩人」である。いいなりになってたまるか。













余談だが、やはり社会主義国家は合理性、資本主義的価値観に縛られずに行動できているといえる。ビルの中で一人でも感染者がいたらそこにいた人間全員を一週間そのビルに閉じ込めてみたり、国営テレビで「塩水でうがいしましょう!」と宣伝しながらミサイルをぶっ放してみたり、よくわかんないけど極東に「自治区」を作ってユダヤ人を押し込めてみたり、あるいは面倒だからそのままユダヤ人をぶっ殺してみたり。反吐がでるほど素晴らしい!呆れるほど素晴らしい無駄である。


ただどちらにせよ、合理性を求める愚かさからは脱却できていない。これらの一見全くの無駄に見える行為も、彼らなりの(そしてぼくらにとっても一応理解可能な)論理でもって行われている。しかし、それを考え実行させているのもあくまで人間。とてつもなく歪んだ考え方をしている、自分を正義の味方と信じて疑わないまま日曜朝7時30分からテレ朝にかじりつく幼稚園児とほぼ同等の思考回路しか持っていないごく限られた人間である。

「人間の顔をした社会主義」とはあまりにご都合のよろしすぎる御託である。非合理の存在である人間の顔をした合理主義の権化なんてものは「羊頭狗肉」である。黙って羊肉を食わせろ。ジンギスカンを食わせろ。マトンほうれん草カレーを食わせろ。なぜ食いたいのか?そんなもの知ったこっちゃねぇ。おれのスマホにも理由なんて書いてねぇからな。
















訳者による解説の中にある表現だが、『真の文学は「狂人、隠遁者、異端者、幻視者、懐疑者、反抗者によってのみ生み出される」』。スマートフォンに齧り付いてなんかいないで、上を向いて歩こう。そして星を見上げて、発狂して、絶望して、全速力で逃げ出そう。この合理的な世界から。繋がりから。

相互理解の不可能性について








何かを書かなければ死んでしまう。しかし、いざ立ち向かうと筆が進まない。いっちょ前に文豪面をしてみる。今日の御供はブランデーのソーダ割だ。まだまだ夜は長い。





その昔、むかーしむかし。このブログを開設したばかりの時分である。「就活」だの「学部生」だの、今から思えば積極的な自己開示を行っていたものである。そこから数年。ぼくは人生の夏季休暇たる学生時代を終え、一般的なクソ文系学生と同様、賃金労働者として「余生」を過ごしている。よくもまあ無駄な時間ばかり過ごしてきたものだ。後に残ったのはボロボロの肝臓とHoI4に費やした2,300時間とこのブログのクソみたいな記事だけである。あとはこの「余生」で過去の人類が築いてきた社会とかいう喜劇の一小道具として使い潰され灰になるだけである。お疲れ様でした。




あーだこーだと書いているが、要はなんにも残っていないのである。からっぽ。空虚。文句なしの空集合φ。
ぼくには何もない。ぼくがこの世界に残したものは何ひとつないのだ。ぼくが唯一「生産」できるウンコも、発達した現代文明の前にはトイレから下水に飲み込まれ、塩素をまぶしてどこぞの海にブチまかれてフカのエサと堕ちていくだけである。冷静に考え直すと恐ろしい事態である。これまでぼくに流れ込んできた時間と親の金をすべて合計して、出来上がったものがウンコ製造機である。

そもそも人類に何かを生産することはできないのだ。産業を第一次から第三次まで分類する(中学受験生しか覚えていないナンセンスな)方式を思い出せば、農業・漁業・酪農畜産業・林業といった「第一次産業」以外に何かを生産しているというイメージは思い浮かびにくいだろうし、ぼくもそう思う。しかし、その第一次産業も元を辿れば収奪に過ぎないものだ。コメもサバもミルクもヒノキも「いかに多く獲ってくるか」が問題なのであり、サバを「人間の手のひらの上で創造」することはできないからだ。第二次、第三次産業も同様である。金華サバの押し寿司も、人間が生産=創造したものではない。目の前で光るビルもそこに押し込まれているコンピューターも、どこかの誰かがかつて分子を入れ換えてつくった物が残っているだけである。人間は神ではない。無から有を「生産」することはできない。所謂「生産」と雖も、所詮は分子の入れ替え作業に過ぎないのである。













人間とかいう種族の生命にはこの事実すら満足に理解できず、自らの行動に他者にとっての何かしらの価値が存在すると勘違いしている個体があまた存在しているという。これほどの狂気はないだろう。人類でこの事実を最も正確に認識しているぼくは、同時にこの事実を最も正確に引き受ける存在である。「引き受けるべき存在」ではない。ここに「…べき」「…べきでない」という定言命法的倫理は適用されない。この判断基準は「他者」と比較=価値の優劣をつけることが出来ないからである。



いや、人類にこの事実は難しすぎるのかもしれない。シラフという狂気じみた状態で日々何かを「創造している」妄想を繰り広げる空虚さを理解するのに、薄い体毛でビルの森に生息する全長1.5~2m前後の直立二足歩行するサルは耐えられないのだ。空虚なぼくがこれまでに存在した人類のうちに正気を保ったまま死んでいった連中の考えたような言葉を入れ換えて「お前らも同じウンコ製造機なんだ」と無駄な時間を費やして訴えたところで、確実にサルどもは理解しない。ただ実際にそうである。理解はされない。こんな無駄なブログなんか書いてないでさっさと寝てろと言われるのがオチだ。だからこの文を書く。お前らも無価値なウンコ製造機だ。




















あーあ、こんな面倒なこと考えずみんな仲良く暮らしている美しい世界みんなといっしょに仲良く労働したいなー!そんなユートピアを描いた小説ないかなー!
ってことで次たぶん書評します。ここまで前編。では。

昨今の情勢について









重てえタイトルだ。Easy goingをモットーに生きている(訳註:ここでは「毎日何も考えずテキトーに生きている」の意)ぼくにとって、こういう抽象的なタイトルで書き始めるのは非常に難しい。あからさまに更新頻度が下がっているので重てえ腰を上げて書き始めるしかない。まあ腰が重てえのは去年から5kgほど太ったからなんだけど。すこし酒は控えよう。これもシラフで書いていく。









さて、ぼくは今年の2月から起こっているとある事情について今の今まで口をつぐんできた。始まった時に更新する気分になれなかったのだ。「まさかやるまい」と思っていたのにあのクソバカハゲがおっ始めやがって持っていた投資信託が暴落したからである。今でも個人的に強い恨みを持っている。金返せ。




それにしても半年間ウクライナが耐え続けるとは思わなかった。この戦争がどう着地するかは全く見えないが、少なくとも(クソバカハゲのおともだち曰く「地政学的に意味のない」)現代ウクライナというまとまりに「国家的抵抗」という神話を与えたことは大きな意味がある。戦争が国民国家を作り出したという点で我々は普仏戦争とまさに同じ構図を目にしているのだ。攻守は逆だが。

革命、内戦期のウクライナにあったウクライナ人民共和国Українська Народна Республікаの歴史とか中央ラーダとかについては全く知らないというかこの辺りは黒軍のことにしか興味がないのでなんとも分からないが、УНР時代、ソ連時代を通しても滅びなかったウクライナの自立心、即ちモスカーリ野郎共への恨みは健在であるということだ。そしてクソバカハゲの罪はこの恨みでもって現代に確固たるウクライナ国家を作り出してしまったことにある。

ぼくは常々「国家はない方がいい」と言っている。どんな国家も碌なことをしでかさないからである。




ただ、だからと言ってその国の政権が「ナチ」だから「人民を解放するため」に「特別軍事作戦」を行うというのはどう言い訳を捏ねくり回したところでまごう事なき侵略である。それが許されるのであれば1933年の時点でドイツをボコボコに殴ってそれこそほんもののナチを破壊すればよかっただけの話である。先に殴った方が悪いのだ。だからナチは悪い。ポーランかわいそう。宇宙行けない。賠償金寄越せ。









戦争は終わらせるのが一番難しい。呑気な「堪ヘ難キヲ堪ヘ」という言葉を出すために原爆を2発も食らった国もある。のほほんと堪えてなんかいねえでさっさとなんとかしてくれよ。今回の戦争もどう終わるのだろうか。モスカーリ野郎共の赤い巣窟が完全に破壊されることを期待するばかりである。








あとはこの国にもいる蛆虫連中こと陰謀論者共について。


燃やす。モスカーリ野郎共が攻めてきたらぼくは陰謀論者共を相手取って戦う覚悟だ。ぼくが陰謀論者を焼く。

「西側の情報はプロパガンダ!」だの何だのと喚き散らかすのは自由だが、そんなもの誰だって知ってるしじゃあお前のソースが真実である証拠はどこにあるんだい?戦争中に真実を伝えるメディアなんてものは陰謀論者共の存在価値と同じくらい存在しない。














ゴルビーが死んだ。アル中エリツィンはとっくにくたばっている。次はあのクソバカハゲをファックしてギロチンにかけて燃やすしかない。遺灰はノルドストリームにのせてドイツにでも送ってやるよ。労働者の自由の獲得を邪魔するものは皆死ね!

なんか違うよなーと思う話






暑い。暑すぎる。燃えるようだ。










かつてぼくはこのブログの中で「この国には言論の自由がある」と書いたことがあるが、今ここでそれを撤回しよう。この国には一切の自由もない。それを踏まえ、ここから先は全て抽象的表現で話を進める。ぼくはまだ死にたくないからである。









先日、とある男が死んだ。この国ではあまり一般的でない外的要因によって。死なせた男は拘束された。


その死んだ男はある程度名が知られており、その死は多くの人にすぐ知れ渡った。









ここでなんか違うよなーポイント。その男の亡骸を乗せた車を官邸の前まで走らせその前で喪服を着て頭を下げる行為である。







いや待てよと。別に国葬がどうとかは今はいいのよ遅かれ早かれ共産党が騒ぎ出すから。問題は、「閣僚が官邸の前で喪服を着て頭を下げる」ことが国家が宗教行為を行うことに当たるかである。
当然国家の宗教的行為は皆変えたくて変えたくて仕方がない70ウン年前の憲法によって禁止されている。

第二十條
信敎の自由は、何人に對してもこれを保障する。いかなる宗敎團體も、國から特權を受け、又は政治上の權力を行使してはならない。
何人も、宗敎上の行爲、祝典、儀式又は行事に參加することを强制されない。
國及びその機󠄁關は、宗敎敎育その他いかなる宗敎的活動もしてはならない。

すごい護憲派みたいな事を書き連ねているが、それでも法は法である。これが別に「党本部」前とかでやったことならわざわざこんな記事を書く必要もないのである。あくまで「党」なら私的な団体だから。ちょっと怪しいけど。それでも私的だから。





法律の専門家じゃないので全くわからないが、これってなんか違うんじゃねーの?詳しい人にはぜひぼくの意見に耳を傾けて検討してインベストしてほしい。






















この程度でお茶濁し。太閤立志伝5を狂ったようにやりまくっているので更新はできない。足利義氏になりきって天下人になれるのはこのゲームだけだ。また歴史的な事件が起こったらブログ書くかも。それまではさようなら。Arrivederci.

「神聖ソヴィエト帝国」の実態とその変容について 〜『エリヤの黙示録』に描かれた千年王国〜






ぽくね?すげえそれっぽいタイトルができた。今年のタイトル賞はこの記事で間違いない。やったね。












①これは何についての記事なのか


ここまでの文字の羅列からぼくがこれから何を書こうとしているかを理解できる人がいるならそれはそれでドン引きする。普通なら「遂におくすりに手を染めたのか」と思うだろう。ぼくもそう思う。Я тоже.





これは、DAU. プロジェクトの映画「DAU. ナターシャ」および「DAU. 退行」の「レビュー」である。これらこの世の終わりみたいな映画2本をすべて観た後にこの記事を書いてぼくの思いの丈をぶつけている。一応ネタバレというかなんというかが含まれているので目立つ箇所からは秘匿しておくべきだろうという判断をしたためだ。念のためである。





この「映画」はすごい。思わずブログを書き始めてしまうほどである。それほどすごい「映画」である。









②それは何なのか


この「映画」、ぼくはいわゆる映画館でペプシを飲みホットドッグ片手に観た映像なので一応「映画」と呼ばれるべきものであるらしい。ベルリンだかどこだかの「映画」コンクールにも出たとかなんとか。








簡単に概要をお教えしよう。
DAU. プロジェクト。それは、Ilya Khrzhanovskiy率いる狂気じみた実験である。ウクライナ東部、ナチと赤軍が死闘を繰り広げた街ハリコフ侵略者プーチンから全世界の自由民を防衛する最前線の英雄都市ハルキウ(2022/6/22訂正。Слава Україні!)の外れにクソデカ撮影セットをこしらえ、同市の住民の実に7人に1人を動員するとかいうまさに人を畑から採ってくるような壮大な社会実験である。そのクソデカ撮影セット内に「研究所」を作り、実際の科学者を世界中からかき集め地元の人間を「研究所」の食堂のウェイトレスとし(当然ながら科学者もウェイトレスも演技は素人である。素人「のはず」である)、そこに何年もの間缶詰にしてカメラを24時間回し続けた、とのこと。狂気の監視社会である。




その監視社会の間に撮られた映像のトッテダシである。それが、DAU. シリーズの「映画」である。







いや、これは「映画」などではない。現実である。



③どのような内容なのか





至極簡単である。

三語で「エロ・グロ・ナンセンス」。






中年女と女が朝からウォッカを呷り掴み合いの喧嘩をする。その中年女が汚ねえ中年ガイジン(ソ連から見た「ガイジン」である)とまともな言語コミュニケーションを取れないままセックスする。KGBがその中年女をひん剥いてぶん殴る。

あるいは、そのKGBが意味不明な宗教儀式を視察する。KGBとネオナチとが仲良くなる。ネオナチがガイジンをぶん殴る。幕間にネオナチと女がセックス。最後にネオナチが生きている豚に六芒星を描いて首を切り落とし、KGBの指示でネオナチが全員ぶっ殺す。全員ウォッカを飲んでいる。












絶望的である。愉快なほど絶望的である。これしかないのだ。計8時間くらいかけてぼくの視聴覚が入手した情報がこれだけである。味覚情報はホットドッグ2本とペプシLサイズがふたつ。同じくらいの時間でもまだあさま山荘事件の中継のほうが情報量が多い。カップラーメンたべたい。







ともかく、情報はこれしかない。ストーリーと呼べる物は一切ない。面白くないのである。







残念ながら現実である。現実にストーリーなど存在しないのだから面白くないに決まっている。











④それは一体何だったのか










この現実に対する唯一の希望があるとすれば、第四の壁の「こちら側」にいるぼくらにとっては、この映像に終了の時点が存在するというメタ的な事実のみである。










しかしこの第四の壁の「向こう側」の人、つまりは鉄のカーテンの向こう側の人にとってすればマジでたまったものではない。




ぼくらにとっては、この現実も所詮スクリーンの中の出来事だ。2本合わせても8時間くらいぼーっと座ってりゃ勝手に幕が下りてくれる。動かなくなりつつある脚を動かし始める映画館ならではの快感に身を震わせつつ、木枯らしに縮こまりながら帰路に着き、酒を呑みながら「つまんねー」だの「カネ返せ」だのと喚き散らしながらレビューサイトにバカみたいに星1をつけてりゃいいだけの話である。


「向こう側」の人にそんな悠長なことを言っていられる暇などない。ソビエトロシアでは8時間の間に480分がぼーっとお前の上に座る!そしてレビューサイトに星1なんぞ付けたらどこからともなく秘密警察がやってきて、木枯らしどころかマジで木を全部枯らしてくるレベルでクソ寒いところでカネも貰えず木を切る仕事に就く。誰が周りで見てるかわからない。余りにも辛すぎる。忘れたいのでウォッカを呷る。殴り合う。

これが一生続くのだ。一生。重たい言葉である。このクソみたいな生活のまま死んでいくのである。











ソヴィエトはちょうど今から30年ほど前に散り散りに崩壊したが、その前に70年ほど存在し続けていた。人の一生か、当時としては少し長いくらいだろう。明日も明後日も、来週も来年も、死ぬまでこのままである。




劇中で中年女が泣いていた。なんて言ってたかは最早覚えてないが「いつまで続くの」とかなんとかだった気がする。








死ぬまで。この「おもしろくなさ」は死ぬまで続く。















⑤おわりに



この映画に限った話ではないが、映画にしろ本にしろレビューに「よくわかりませんでした」とか書くなって話な訳だ。少しは考えろとも言いたいが、考えるだけの脳が足りてないからそういうレビューを書くのだとも言える。かなしいね。別にいいんだけどさ。





タイトルについて。少なくとも、「神聖ローマ帝国」とかいう詐欺師集団よりはマシだと思う。「神聖」だし「ソヴィエト」だし「帝国」だもの。いや、マシだね。Слава Православной Советский Союз!(正教のソ連に栄光あれ!)

おしり。

革命とは手段ではなく結実である

自己=存在世界=不条理=アナーキー=実存


自然=人間≠理性




ナザレのイエス磔刑=津島修治の入水










哲学=眼鏡、宗教=色眼鏡






「理性は間違う」は理性から導かれる


価値観とは妄想である
好きの反対は無関心











「全ては許されている」



弁証法はただの思考停止



胡蝶之夢
DIES IRAE



創造とは破壊である。全ては無に帰すのだから

俺か、俺以外か



死に至る病とは絶望である。絶望とは生命である。絶望とは聖である。









外には狂気があり、内には絶望がある




「ない」が「ある」

ぼくの戦争論~反戦論者=反権力者としての立場について~

タイトルを見て「なんだコイツ、反戦パヨク野郎か」と思ったネトウヨ兄貴たち(ここで「姉貴たち」については考慮しない。ネトウヨの女にそもそも女としての権利は必要ないからだ。反論できるならしてみろ、俺を殺してみろ高市)はまず落ち着いてほしい。ぼくはいまからパヨクたちを差別する。ひとまずは君たちと一緒の立場に居よう。ただこの文章の最後のほうで君たちも差別するけど。君たちネトウヨはバカだから先に述べておく。













人間の自然状態とは、「万人の万人に対する闘争」と表現するのが最適であると考えられる。この記事に反論しようとするのもまた同じ行動原理。隣にいる奴よりも上に立っていたいという心情が、人間にとって行動を起こすための一番「簡単な」動機になっているということは(酒に酔いながら記事を書いているという人間として最も深刻な機能不全を考慮しても)少し考えれば明らかである。実に動物的である。動物としての人間の、生存本能に結びついた至極卑俗で簡潔な動機。獣としての人間である。卑しい。汚らわしい。くたばってしまえ。所詮人間なんぞ獣の一種でしかないのだ。










この「隣人との闘争」という概念に人間の発明品:「集団」というエッセンスをトッピングしてみれば、どうだろう。実に面白い構図が出来上がる。先史時代から今に至るまで、ホモ・サピエンス間の闘争のうち「集団」以外の理由で死んだ個体はどれだけいるだろうか。ガロアとかいう個人同士の果し合いで死んだよくわからんバカ連中を除き、「殺された」個体はほとんどの場合集団同士の殺し合いの場で死んでいるはずだ。ちんけなそのへんのチンピラヤクザのかわいらしい抗争から独ソ戦に至るまで、ヒトという動物は「集団」という空想上の概念のために生命活動を終わらせることを悦びとしてきた。「革命的」な「英霊」という称号は死なないと手に入れられないものだ。









闘争とは、人間の最も根源的な欲求を満たしてくれる代物である。では、この闘争をもっともーーっとタケモット拡大させていけばもっと楽しいものが手に入るはずである。何を隠そう、世界大戦である。



戦争ほど楽しいものはないだろう。「今日は何をしよう」「昼には何を食べよう」「明日はどうやって生きていこう」、こんなくだらないことを考えなくて済むのである。昼どころか飯も碌に食えない環境なのだ。何も考えずに済む、幸せである。そもそも「何をしよう」など、考えている暇は一切ない。戦場で何か考え事をしながらボケーっと突っ立っていれば、味方でも敵でも銃弾で貴様のクソまみれの頭蓋をぶち抜いてくれる。ありがたいものだ。余談だが、戦場での死因のうち7割は「味方による誤射」だそうだ。
お前が思考してもしなくても、戦場でお前は死ぬ。根源的な欲求をすべて叶えてくれる場所が戦場だ。そもそもバカなお前なんぞ、単に「徴兵」された人間は歩兵以外の何物にもなれやしない。せいぜい運がよくて水兵だ。頭をぶち抜かれてくたばるか溺れてフカのエサとして自分の体を地球に捧げSDGsに貢献するかのどちらかだ。

もはや悟りの境地である。何も考えず、ただ命の奪い合い。命を奪った方も次の瞬間には死んでいる。美しい世界である。





なので、ぼくはお前をぶっ殺す権利を持っている、ということを書いてこのブログを終えることもできるがそれはそれで炎上して死ぬ方が楽な状況になってしまうのでひとまず留めておく。








で、だ。
最も問題なのは「左翼」のrhetoricである。マルクス以降の「左翼」=「共産主義を信奉する勢力」にとって、最も重要なテーゼは「階級闘争」である。マルクスにしろレーニンにしろ、毛沢東にしろ金日成とかいうなんだかよくわからん極東ロシアのチンピラ偉大なる民族の太陽にしろ、「闘争」は思想の根源をなす「活動」である。「左翼」は「闘争」しなければ思想が成り立たないのである。物理的な闘争、殴ったり蹴ったりである。彼らの教義に基づけば、俺たちを搾取してくる資本家をぶっ殺しても問題ない、むしろそうしなければならないのである。金日成を「左翼」に分類している以上ここでは国民社会主義、ナチズムを「左翼」に含めてしまうことにするが、金日成ヒトラーにとって、最大の敵とは搾取してくる日帝地主野郎や日帝巡査野郎(これらは北の教育現場で実際に使用されている言葉である)でありユダヤ人(とそれに結びついた国際主義=共産主義)である。闘争である。弱い立場にいる人間が強い立場の人間に対して抵抗して何が悪い。確かに言われてみればそうである。人間はこの手の「闘争」が大好きだ。歌舞伎での勧善懲悪ものなんぞそのものである。イランや最近のアフガンでは勧善懲悪省もあるくらいである。悪を滅することは最高の快楽なのである。


その「左翼」は、「反戦」を掲げ人を殴る。おもしれぇなお前。どんな理屈をこねくり回しても人をゲバ棒でぶん殴って殺したら殺人者であることに変わりはないのに、それが「反戦」のためであれば彼らにとって問題ないのである。
かつて、レーニン革命的祖国敗北主義とかいうよくわからん言葉に「帝国主義戦争を内乱へ!」というスローガンをくっつけ、内戦を起こしトータルでおよそ270万人が死んだ。270万である。数字の規模感でいえば第二次大戦での日本の犠牲者とどっこいどっこいである。
ロシア内戦以外の例だって腐るほどある。国共内戦も然り。そんなこんなの歴史的経緯を踏まえた「共産主義」は確実に人を殺すのである。反論はこの場でいちいちしない、全部論破できるからである(ひろゆき並の感想)。「反戦」なんて誘い文句は余りに虫のいい、支持獲得のための詭弁でしかない。自分たちの掲げる「正義」のための犠牲なら一向にかまわない、敵の死体なら万々歳。人を殺す「革命」が「反戦」という言葉と結びつく。こわい。巧言令色鮮矣仁。



偉大なるレーニン主教同志の金言である。

戦争反対(平和演説)は、労働者階級をだます手段の1つだ。

Vladimir Ilyich "Lenin" Ulyanov







ただ、人殺しの理屈が「革命」のためでも「祖国」のためでも変わりないということだけは言っておきたい。軽い言葉の裏で何万も死んでいく。右翼にも左翼にも反対、自らを縛るすべてのチカラに反対。それがぼく。