ぼくは一年で一冊しかマトモな読書をできないのかもしれない。いや、それでもマシな方だ。だってぼくは資本主義的生産様式の奴隷に過ぎないのだから。読書する時間を与えられている奴隷など本来は存在しない。ぼくはその点特権階級に属しているといえる。
自由を捨てること、即ち文明を享受することは非常に快適である。火でもって柔らかい肉を食し闇を照らし暖を取ることはまさに人類を「人類」たらしめる活動である。だから、ひとたび人類が自ずから放つ光、誰かの残業によって生まれるビル街の「美しき」光源を失ったお前はまさに満天の星たちに向かって真っ逆さまに落ちていく。お前は「無限遠の」彼方の天球に汚らわしく無秩序に貼り付くオリオンの三連星に向かって落下していく。これまでお前を「母なる地球」に縛り付けていた重力のベクトルはたちまち反転して斥力と化し、お前の頭上の谷底にお前を放り込む。まるでスパルタが赤子を捨てるように。
直視するにはあまりに美しすぎる100万ドルの光を放つ、吐瀉物まみれで常にサイレンが鳴り響く街の暖かさに包まれて育ったお前は、その深淵への落下が恐怖でたまらない。お前は落下するし、それに抗えない。抗おうともしない。誰かの残業代100万ドルが、あるいはその100万ドルの消尽の結果として現れる急性アルコール中毒のバカを運ぶ救急車の赤色灯とサイレンとが、お前の爪先を辛うじて路地裏に秩序だって落ちている吐瀉物に繋ぎ止めている。その美しき世界があるからこそ、お前は「幸せ」に生きていける。お前は幸せだ。だってお前は火を起こせないだろう?
さて、本の内容について。
この「 最も悪質な反ソ宣伝の書 」の言いたいことは割と序盤に出てくる。すなわち、
『不自由の本能が古来本質的に人間に固有なものだということである』
まさにその通りである。
20世紀の鉄道時刻表が古代文学最大の記念碑的作品として伝承されている国、「単一国」。一年31,536,000秒の予定が(ほぼ)すべて「時間律法表」により規定されたこの世界で、義務化された幸福を享受しながら数学者たる主人公は生きている。理性は、「恩人」は決して間違えない。論理が全てを規定する。論理こそ、数学こそが美しく、古代の「インスピレーション」とかいう癲癇を利用しなければ産み出せなかった音楽やら何やらは雑音にすぎない。全ては合理的に。人類は宇宙へ歩みを進めていく。
心にも思っていないことを言えないたちなので筆が止まってしまった。所謂ディストピア小説である。社会主義を究極に推し進めた世界。エクストリーム社会主義である。わざわざご丁寧に「最も悪質な反ソ宣伝の書 」などと罵倒してきたことは、逆説的にソビエト連邦という国はこの本の世界観を良しとする国であったということを証明しているといえる。人間の体格に基準(ノルマ)を設け、セックスの時間も管理することで兵士と科学者を大量生産しファシスト共を粉砕したかったのかもしれない。お決まりの大量突撃と戦略核の乱射で。それを痛烈に批判されてしまえば、人間ならば無駄な時間を費やしてでも罵倒したくなってしまうだろう。気持ちはよくわかる。
ただここまで読んで、「ソ連こわいねー」では終わらない。終わってはいけない。著者が述べていないことからこそ、読み取るべきことがある。
先述の通りこの本の題材は「エクストリーム社会主義」の世界、合理性を突き詰めた世界である。しかし現代において、人間に合理性を要求するのはむしろ「資本主義」社会の方ではないか?
社会の構成要素それぞれに「生産性」なるものさしがあてがわれ、それで測られた量に応じてそいつの食える飯の量が変わる。住める場所も変わる。得られる権力が変わる。「生産性」の高い人間は、霞が関の議員会館でふんぞり返ることができる。中にはドバイから帰ってこないバカ暴露系YouTuberもいるが。しかしだからこそ、「障害者には生きる価値がない」だの「性的マイノリティに生産性はない」だのといった言論が罷り通るようになる。後者の発言をした有名な人物に非常に生産性の高いぼくらの代表がいることをここで思い出しておこう。なにしろそいつは人間の中でも人間を胚から生産できる類稀なほど生産性の高い種族に属しているのだ。そいつを組み敷いて後背位からファックしてみたい。やっぱりいいや。閉経してるし。
そして、そんな資本主義社会の生み出した21世紀の「時間律法表」こそスマートフォンである。
はっきり言って、スマホほど便利なものはないのだ。朝起こしてくれる。電車を調べて駅まで連れていってくれる。電車賃も払ってくれる。音楽も聴かせてくれるし映画も見せてくれる。訳のわからない発狂した文書を保存してくれる。
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うっせぇわ。お前に指図されてたまるか。いや、お前の裏にいる「恩人」のいいなりになってたまるか。
「恩人」に特定の人間としての物理的存在は必要ない。スマホの向こう側。スマホを通して一年31,536,000秒常に繋がれるようになってしまったことが「恩人」である。いいなりになってたまるか。
余談だが、やはり社会主義国家は合理性、資本主義的価値観に縛られずに行動できているといえる。ビルの中で一人でも感染者がいたらそこにいた人間全員を一週間そのビルに閉じ込めてみたり、国営テレビで「塩水でうがいしましょう!」と宣伝しながらミサイルをぶっ放してみたり、よくわかんないけど極東に「自治区」を作ってユダヤ人を押し込めてみたり、あるいは面倒だからそのままユダヤ人をぶっ殺してみたり。反吐がでるほど素晴らしい!呆れるほど素晴らしい無駄である。
ただどちらにせよ、合理性を求める愚かさからは脱却できていない。これらの一見全くの無駄に見える行為も、彼らなりの(そしてぼくらにとっても一応理解可能な)論理でもって行われている。しかし、それを考え実行させているのもあくまで人間。とてつもなく歪んだ考え方をしている、自分を正義の味方と信じて疑わないまま日曜朝7時30分からテレ朝にかじりつく幼稚園児とほぼ同等の思考回路しか持っていないごく限られた人間である。
「人間の顔をした社会主義」とはあまりにご都合のよろしすぎる御託である。非合理の存在である人間の顔をした合理主義の権化なんてものは「羊頭狗肉」である。黙って羊肉を食わせろ。ジンギスカンを食わせろ。マトンほうれん草カレーを食わせろ。なぜ食いたいのか?そんなもの知ったこっちゃねぇ。おれのスマホにも理由なんて書いてねぇからな。
訳者による解説の中にある表現だが、『真の文学は「狂人、隠遁者、異端者、幻視者、懐疑者、反抗者によってのみ生み出される」』。スマートフォンに齧り付いてなんかいないで、上を向いて歩こう。そして星を見上げて、発狂して、絶望して、全速力で逃げ出そう。この合理的な世界から。繋がりから。