民主共和国臨時政府執務室

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【「死」に関する民主共和国臨時政府国家評議会議長談話】


この記事を書き始めてから数か月が経ったが、放置推敲している間に激動の2020年は永遠の過去の彼方へと吹き飛んでいった。「日本人的惰性」教徒の自分ですら、年越しの瞬間の初詣には行かなかった。ゆく年くる年を見ながら年を越すのは人生で初めての経験だったりする。よい経験だった。以下本題。


















この記事から自分の内面的な主張、宣言を「談話」タグでまとめることにした。最近の流行にのってタイトルを長くしている。




さて、自殺を考えている訳ではないと強く述べておく。序盤に言っておかないと早とちりマンたちに攻撃心配されてしまいそうだから。









ぼくは(多分)普遍的な人間である。普遍的な人間は皆いつか死ぬ。ぼくはいつか死ぬ。古代ギリシアから続く伝統の三段論法である。ここで最も重要なことは「大前提」の「人間は皆いつか死ぬ」というところである。


ぼくは、自分以外すべての人間が哲学的ゾンビであるということをもはや確信して生きている(実際にこの問題は解決しようがない)し、この肉体、この脳の中で生じている「ぼく」という意識は他のすべてのものと異なる異質で崇高なものであると信じて疑っていない。基本他人から何を言われても聞いていないのである。
そんな「ぼく」は一応人間のはずだ。どこまでが「人間」か、という議論はここではしない。長いから。ただ知り合い100人50人に「ぼくって人間ですか?」と聞けば50人(50体の哲学的ゾンビ)は「お前は人間だ」と返してくることだろう。「まともな人間だ」と言ってくれるかはつゆ知らず。だが自己定義上、自分は人間だ。






2020年は、戦争ごっこの一年だった。コロナ、なんていう単語はメキシコのビールかトヨタの名車、あるいは「コロナ加熱問題」で非常に有名(当社調べ)な太陽外層のガス層くらいなもんで、まさか人類史に残るパンデミックの象徴になるなんて、ほんの9記事前までぼくは一切考えもしなかったし、おそらく武漢市民たちもイタリア国民もトランプもジョンソンもマクロンも、志村けんも、そしてついこの前感染し何とか回復した10年来の友人Fも同じだっただろう。


これまでの非日常が日常と化す。特に、「死」について。雨が降ろうと槍が降ろうと、戦争だろうとパンデミックだろうと、この地球上では毎日ダース単位じゃ片付かないくらいの数の人間が死んでいる。当たり前である。この現実から目を背けるために人間はこれまでの長い歴史の中で、殴り合いを控えるために核兵器を作り、ウンコに塩素を混ぜて海にばら撒き、ギャン泣きする赤子を押さえながら病院に連行して予防接種を受けさせてきた。だが戦時体制となると、普段は忌み嫌っているはずの「死」が数字として人間を「魅了」する。この366日、テレビで死者数を報じなかった日がどれだけあっただろうか。毎日毎日毎日毎日、「死」が存在していることを人間は無意識のレベルで刷り込まれてきた。







2020年、人間は「死」を思い出した(予告編風に)。ぼくも然り。








今までの「日常」がおかしかったのかもしれない。逃れられぬカルマ「死」を忘れようとしていた一見生物学的に正しそうな態度が、実は○○そのものだったのかもしれない。

○○に「苦しみ」を入れれば仏教だし、「罪」を入れればキリスト教だ。人間としての根源の問い。





さあ、ぼくはどうやって死ぬのだろう?







2021年1月吉日、半袖短パンで記す。お前凍死するぞ自己批判)。