民主共和国臨時政府執務室

Willkommen im Büro der Provisorischen Regierung der Demokratische Republik!

a present

プライベートで人生の区切りがついたタイミングなので、現段階で自分の脳みそに浮遊していることがらを文章として書き出しておく。







Amazing Grace









ぼくはアメイジング・グレイスという曲が「嫌いではない」。メディアの効果で割と世間にも知られた曲であるし、短いので旋律も覚えやすい。とある北方の湖畔で少年の時分に買った、赤い屋根の家の形をしたオルゴールもこの曲を奏でてくれる。この湖畔に労働者として舞い戻ることになるとは当時想像もしていなかった。そんな少年時代のぼくもその曲が「嫌いではなかった」。このオルゴールは娘ができたら嫁入りの時にでも持たせてやりたい。





「嫌いではない」のには理由がある。この曲はぼくにとって、無意識下において強烈に死と結びついているからである。死が好きなのは他に好きなものもない自殺志願者くらいのもので、ぼくには一応この記事を書こうとするくらいの希望はある。つまり、ぼくはこの曲を好きとは言わないわけだ。






問題は「なぜこの曲が『死』の概念と関連付けられているのか」ということだった。



本田美奈子.である。彼女の作品中最も鮮烈な印象を残したものが、この曲の独唱だった。死の数ヶ月前に病院で録音された音源を、公共広告機構骨髄バンクへの登録呼びかけに使ったのである。どんな番組で流していたかまでは記憶していないが、当時アイドルの存在も理解せずウビャウビャと喚き散らかしていたぼくでもCMの存在を無意識のうちに記憶していたということは、放送されていたのは深夜帯や昼間ではないはず。相対的に多くの受信者に音楽が届けられたといっていい。
そしてそのひょろひょろとした女声の独唱と真っ黒な背景の映像は、「生」を享受する少年のぼくに強烈なを意識させることに成功したのである。






もっとも、この歌は奴隷船の乗組員が嵐に巻き込まれ回心したとかなんとか、という歌である。当時は当然そんなことは知らなかったが、それにしても神ってのは都合のいい奴である。





そんなこんなで、その歌に結びついた「死」の観念と公共広告機構の不気味さというイメージを数年間漠然と抱えながら、ぼくは津波に飲み込まれる仙台平野をテレビ中継で眺めていた。





②フクシマの人々の物語





この文章を頭から全て読んでいる人か、あるいはこのブログの記事全てを精読している後世の研究者くらいしか気づいてないだろうが、ぼくは「北方の」という言葉をよく使う。この際言ってしまうが、ぼくは東北人だ。「東北という名称は畿内中心の視点に由来するものだから記紀時代以前の『日高見』に改名すべきだ」という一種の町おこし的な思想には同感であるが、変換で何度やっても出なくてクソ面倒なので東北人というアイデンティティには誇りを感じている。そして奇遇なことに学生から労働者に至るまでの数年間を東北地方で過ごすことができた。東京モンとして僻みという名の差別を受けつつ、東北の一員としての人生をある程度は謳歌していたと言ってよいだろう。




上述した「北方の湖」とは猪苗代湖である。東北にはデカめの湖がちょくちょくあるしどれも風光明媚ではあるが、なんと言っても猪苗代湖が一番である。なにしろ単純接触効果がある。









ぼくはフクシマの人間と会話をして賃金をもらっていたことがある。そう、あのフクシマだ。

忘れもしない震災の瞬間、ぼくはまだガキンチョだった。「こんなご時世にフクシマに行く人なんかいないよね」などという危険な発想でもって我が一家は会津への旅を「敢行」した。実際に観光客の姿はほとんどなく、猪苗代湖畔もすっからかんだった。他に人がいなかったのでゆっくりオルゴールを吟味できたのだ。


そこから10年以上経った。当時生まれた子も中学受験で塾通いを始める年頃だ。未だに現地で見る夕方6時のニュース番組のヘッドラインは、避難指示の解除を巡る説明会の報道である。津波で被災した村に新しくできた郵便局の話題である。常磐線の駅からの中継である。










フクシマにおいて、震災は人類史としての扱いをされていない。またはこう表現できるだろう。震災はあまりに動物的「生活」である。
未曾有の原子力災害が生み出した避難指示と山本太郎の広めた風評被害+86からのイタ電は、フクシマでは未だ消化しきれていない。








福島県連邦国家だ。猪苗代を含めた会津はそもそも震災の「直接的」被害とはほぼ関連ない。問題は中通り浜通りである。穏やかさ、裏を返せば徹底した無気力さというものもあるのかもしれない。あまりにも生活的であるので、もはや意識するのをやめてしまっているのかもしれない。諦めているのだ。東京に一番近く労働力や資源の供給源として搾取され、「東北の2番手」を自負する割に速達列車は停まらず、挙句には年1でデカい地震か台風か、あるいはその両方がやってくる。





彼らは、今を生きていく。今しか生きる場所がないのだから。そうやって、今日もパチンコ屋に繰り出す。








ぼくは演説のためフクシマに立つ山本太郎を1メートルくらいの至近距離で見たことがある。オーラをなにひとつ感じなかった。だが政治に携わる人間とは本来オーラを出していてはいけないのかもしれない。そう思い、銃撃するのはやめておいた。







③あゝ、マジで無情







今日も今日とて世界最速の水平エレベーターは元気に浜名湖を駆け抜ける。






新幹線というものは便利だ。バルカン半島だったら別の国になりそうなくらい文化の違う都市圏を、一眠りする暇もない間で行き来できる。そんなものができてもう60年だ。これに関してだけは戦前のこの国に感謝したい。大陸進出のためとはいえよくもこれほどの計画を考えたものだ。










ここまで民族主義的なことを書きすぎたので中和しよう。ぼくはこの国の人口は多すぎると思っている。面積も経済規模もほぼ同じ現代ドイツは人口8,300万くらいである。ドン引きするくらいのネオナチが湧いてくるくらい移民国家であるにも関わらず。
元来ドイツは農業国だ。いくら20世紀中にでほぼ半分くらいにしぼんだとはいえ、圧倒的に農業国である。当然ながら耕作面積は日本の方が圧倒的に小さい。なんてったって、そもそも彼らはもともと黒パンとソーセージとザワークラウトがあれば戦えるのだ。19世紀ごろのライ麦の生産性はヨーロッパ随一だ。そんな農業国ドイツで8,300万を養うのがギリギリである。というかほぼ無理。そんなこんなでウクライナに大量のレオパルドを送りつけているのである。

何が言いたいかといえば、ぼくは東京一極集中も別に悪くないと思っている。幸いこの列島は新幹線含め無駄じゃねぇかってくらいインフラが発達している。人口が希薄になってしまった遠隔地で大規模に農業生産をしても、十分にペイできると思う。そうやって農村でコミューン的自治を行えば完璧である。都市の空気は自由にする。





そんなこんなでこの列島のインフラの中核を為している新幹線だが、これがあるのとないのでは心理的効果が段違いである。地続きで高速列車が東京に繋がっていること。数分ごとに列車がくること。数時間座ってれば東京に着くこと。同一の地平にあるという意識は東京への猛烈なバキュームとなる。地方間を移動するなら東京を経由してそれぞれの方向に移動しても時間がほぼ変わらないとなると、物価やら何やらを考慮してでも東京に住みたくなってくる。よくネットの自称御意見番が「東京に住むのは負け組!」と積極的に発信するのは、裏返しとして東京に住みたがる人間が多いことを示唆しているのだ。

そしてその効果は60年前に始まってからとどまるところを知らない。














新卒で入った会社の配属発表。新幹線のない都市に飛ばされた女はことごとく泣いていた。そんな中の1人は在来線特急という東京に帰る術を見つけ、毎週の様に東京に帰っては高そうな鮨と自撮りをインスタに載せている。彼女はトップセールスになった。

顔面採用の横行するルッキズム的業界だ。同期の女子たちはそれなりに華がある。男子校出のぼくが恥ずかしくなるくらいに。そうやって同じ会社内で結婚させ、できた子供を労働力として再生産するというのがこの業界のやり口である。反吐が出る。




ともあれ。そんな鮨と自撮りを見せつけられ、ぼくは非常に惨めである。同い年はたんまり出たボーナスで鮨食ってんのになんでオイラは19世紀ドイツの農業生産性なんかを論じているんだ。

結局、ぼくもそのルッキズム的世界観から抜け出すことができないでいる。反吐が出るとか言っておいて、インスタを開いてしまうのである。ここでスパッとSNSを辞められていたらそもそもこんなブログなど書かないのだ。


そうやって自分の無様さと醜さをスマホの反射に見る。お前は誰だ?





先日その女が夢に出てきた。死んだんで夢枕に立ったのかと思ったら違った。インスタの見過ぎだった。さて、品川を出た。












小田嶋隆『東京四次元紀行』



書籍詳細 - 東京四次元紀行|イースト・プレス











仕事終わりに職場の同期くんと酒を飲む約束をした。彼は仕事の終わりが長引いている。いつもなら先に店に入って飲んでいるのだが、それにしても終わりが遅い。面倒な客を掘り起こしたのか、はたまた事務方とトラブルを起こしたか。ぼくとは違い、彼は頑張っている。あまりにも暇なので、駅ナカの本屋に立ち寄る。所詮駅ナカなので大した品揃えではない。中高生向けのラノベかマンガばかりだろう。ぼくだって昔はそうだった。

暇なので、彼から電車に乗ったとのLINEが来るまで店内をぶらぶらすることにした。すると文芸コーナーに、どこか別の本屋で見かけた背表紙が置いてある。ふつう、書店に置いてある本の背表紙を覚えていることはまずない。それでも、タイトルの意味がイマイチ不明瞭で気になって手に取ったのを覚えていた。そのときはなにか他の哲学書かを買ったので棚に戻したはずだ。こんな駅ナカで再開するとは。これもなにかの縁かもしれない。







収録の短編群は、まるで夢を見ているような空気だった。それも起きたら忘れてしまう類の。確かに「四次元」的だ。
だが、筆者にとってもこれは夢だ。モチーフとなった出来事はあののっぺりとしたガラスとコンクリ製の都市のどこかの地平上に、確かに存在したのだと思う。しかしそれはあくまで夢のような記憶。ひとつひとつの物語は複数のモチーフが一緒になったものかもしれないし、筆者の創造かもしれない。こんな類のことを書き遺して筆者は亡くなった。これを読んで初めて知った。

この夢に出てきた人々も、ぼくと同じ東京を見ているのかもしれない。久々に降り立った東京は巨大な映画セットに見えた。









この本を買った日に彼と何軒目まで行ったか、そもそもその日に彼と一緒に飲んだかも覚えていない。記憶は大脳皮質の中の無限遠のどこかに張り付いてしまった。今や全ての夢がぼくから同じ距離、等しく無限遠の彼方にある。音楽の旋律も、雪が降る猪苗代湖の風景も、これまで接してきた人々の顔も。もう答え合わせはできなくてもいいと思った。

高島鈴『布団の中から蜂起せよ』





布団の中から蜂起せよ - 株式会社 人文書院













書店に赴くという行為は、ぼくにとってただ脚の筋肉の運動を意味するというわけではない。そもそも書店というところには、本を並べて売る場所という以上により重要な意義が内包されている。




書店とはナンパの場である。
知識人ぶってこの文章を書いているが、所詮は大卒の賃金労働者である。ただ文字の読み書きはできるので、(ありがたくも存在する数少ない)休日には暇つぶしも兼ねて書店に赴き棚を眺めるのが趣味である。

「先輩」とかいう存在しうる日本語の中で最も穢らわしい概念で形容される職場の人間からはよく「本を買うならkindleでいいじゃん」との金言を賜るのだが、そうじゃねぇんだよな。Amazonは確かに便利だ。この冒頭でリンクを貼るくらい。だが、そこで買えるものは自分が欲しいと最初から決めていたもの、そしてAmazonによって欲しいと思わされたものだけだ。書物との出会い、もっと言えば誰かからの声の投げかけを受け止める行為はそこにはない。
ここでいう「声の投げかけ」には明らかにぼく特有の用法がある。この文章が入試で出ていたらここが線を引くところ。かつてぼくも受験生だった輝かしきころこんな文章を見かけた記憶がある。すなわち、書籍と電子書籍は全くの別物であり、そこには厳然とした身体性の差異がある。書籍にはまさに実際の現実存在としての紙の上にインクが載って、なんらかの記号でもって意思の伝達をしている。これほど目を背けたくなる事態は存在しないだろう。己の書いた文章をわざわざ編集者なる人間に読ませ、工場で印字し製本してトラックに乗せて運び書店の店員がそれを売る(グーテンベルク以前ならここの間に一字一句書き写すという苦行が待ち構えているのだが)という、まるで銭湯に入ったかのような露出の過程が存在している。これほどの工程を踏んでようやく受肉(つまり「身体性の獲得」)をした文章でもって訴えたいことがあるという事実がぼくの練習問題の文章の作者を唸らせた。こんなふざけた名前のブログ如きでオナニーした気になっている文章とは覚悟の入りようが違うのだ、覚悟が。


そんなこんなで受肉した書籍、しかもそれなりに新しい情報を載せた書籍が書店には信じられないくらい大量に並んでいるのだ。これは決して誇張ではない。新幹線ホームのキオスクならいざ知らず、たとえどんなにクソど田舎のイオンモールに入っている書店でも、英和辞典から歴史小説、ダイエット本やら人間革命やコミックなどといったところからマップルくらいまでのラインナップはあるのだ。全部読んでいたらマジで一生かかる。ちょうど人類皆を愛するには磔刑で命を落としてしまうくらい時間がかかるように。
そしてぼくらは全人類を愛せるほど神がかってはいないので、悲しい哉情報を取捨選択するしかない。その情報の取捨選択がうまくできる「先輩方」はいいとしても生憎ぼくはそこまでの判断力を持ち合わせていないので、Amazonはあまり使わず書店に直接赴いて徘徊するのである。









それにしても、書店での徘徊ほど心地のよいものはない。徘徊しすぎて店員に顔を覚えられるという最悪な事態が待っていることは確かだが、それを差し引いても書籍の海を泳ぐことはワイキキで泳ぐより心地いい。なにしろ、自分の興味のないジャンルの棚に読みたい本が置いてあるのだ。一応「哲学」みたいな棚を目指して泳いではいるものの、フヨフヨと数学やら自己啓発やらコンピューターやら天文学やら芸術やら、あちこちに流されている。この本は「社会学」で見つけた。どうも「社会学」とかいう領域には昔から苦手意識というか食わず嫌いというか大学の某「新しい学生運動」組織に勧誘されかけたというかでとにかく嫌いなのだが、その「社会学」の棚に置かれていた。表紙も帯も真っ黒で挑発的でかっこいい。このオレ様に「死なないでほしい」だと、舐めやがって。
そうして運命的な出会い、つまりナンパをして出会ったのがこの本である。











ありがたいことに、最近行く本屋のすぐ近くにはコーヒー屋がある。普通のチェーン店だが清潔で雰囲気もよい。その日の予定は全くないのでそこに入って数分前に買ったこの本を広げてみる。
するとぼくの言いたかったことがすべて書いてあり、それでいて言いたいことが何一つ書いていない。それもそのはず、ぼくは一応多数派的「男」(ここでジェンダー論の議論はしません。酔ってるんで)であり、なんだか色々書いてあるこの本の前半部で問題となる「女」にとっては絶対的な加害者であり敵対者である。ぼくが女を殴ったら死刑だが女はぼくを殴り放題だ。そうやって育ってきたし実際女から殴られてきた(だから中学から男子校に逃げたということもあるのだが)。だから、著者のいうことは絶対に「理解」してはいけないのだ。敵であるぼくが著者の言い分を「理解」する構造そのものがクソである。

そして著者は、そんなぼくらを『殺してやる』と叫ぶくらい『死なないでほしい』と願ってくれるのだ。『殺してやる』。凄まじいほどのエネルギー照射。著者はこの世界に対しぼくが見たことのないほどの熱量で関与してくれている。別に「お前を倒すのはこのオレだ」的なツンデレではない。本当に『殺してやる』と思って下さるのだ。日々「こいつ死なねぇかなァ」と思うだけのぼくとは完全に真逆である。無限の愛。これだけの愛があればこの世界に立ち向かっていくのも無理はない。なにしろ愛と勇気はあんぱんですら友達にする。





なんかこう書くとすごく怖そうだが、非常に読みやすいエッセイ集である。映画の素養があるともっと楽しめる本かもしれない。2時間ほどで読み終わり、結露でグッチョグチョになったストローの袋を丸めてコーヒー屋を後にした。外はクソ暑い。














かつてぼくも自らを無政府主義者であると定義したが、この際そのような定義はどうでもよいものである。政府があるとかないとかいう話の前に、そもそもこの愚かな種族の一個体としてぼくの意思とは無関係に産み落とされてしまった以上あとぼくはこの愚かな種族の滅亡を熱烈に期待しながらテキトーに日々生きていくしかない。ぼくがここで何を書いても絶対に世の中は変わらない。このブログを読んでいる暇があったら少しでも「生産性」の高い行動に従事すべきである(とお前の周りの人は思っている)。だが、この本の著者はそんな「人間」ですら愛してくれる。お前にも「死なないでほしい」と言ってくれる。
ぼくは今のところ匿名で著者に「アウトレンジ攻撃」を仕掛けているだけだが、いつかは全部の答え合わせを夢見るかもしれない。あるいは永久にないかも。おわり。

(仮題、あるいは本題そのもの)













小ラーメンカタメの希死念慮マシ尊厳スクナメアブラカラメショウガにキムチのトッピング(¥100)というのが昔からのオーダーである。











①意志の弱さについて


iPad Proを買ってしまった。全く必要がないのに。自分でもびっくりするくらい決断に自己の意志が関与していないのである。このよっつ前の記事を更新するまで使っていたiPhoneの穴がガバガバになってしまい、iPhoneを買い替えるだけのつもりで外出したにも関わらず、気がつけば左手にiPadの入った紙袋をぶら下げている。あーらびっくり。嫁がいたなら殺されていてもおかしくない。




なにがおかしいかと言えば、昨年末の記事において

スマートフォンに齧り付いてなんかいないで、上を向いて歩こう。そして星を見上げて、発狂して、絶望して、全速力で逃げ出そう。この合理的な世界から。繋がりから。

E. I. ザミャーチン『われら』 - 民主共和国臨時政府執務室
などと偉そうに御託を並べていたのである。
正直に申し上げれば、この文章を記述する間ぼくはオーガズムに達していた。しかしこんな文章を書いて半年も待たないうちに、ぼくはただデカいだけのiPod touchを買っているのである。





人間に合理的判断を要求するのは無駄だ。





②素人の言う「どういうお笑い?」が面白くない理由


「どういうお笑い?」という言葉は他人のおかしな言動に「ツッコむ」時のものとして、この数年の間にミーム的な流行を超え広く社会的に通用する言葉になった。

だがこの言葉は、いわゆる素人が口にするにはあまりにも面白くない言葉である。
それは素人の発するこの言葉にはコンテクストがないからだ。







③抑圧に憧れて、または「なぜ人は共産主義が好きなのか」




ぼくの好きなアネクドートといえば。

「君の母はだれだ」

「わが偉大な祖国、ソビエト連邦です」

「君の父はだれだ」

「わが偉大な指導者、スターリン閣下です」

「君は何になりたい」

「・・・僕は孤児になりたい」







④ 「合理的な疑いが残る」








心の哲学




心の哲学」なるジャンルは「哲学」から独立させるべきだと思う。独立とは言わないまでも、ある種の自治領域であるべきだ。最早現代においては科学哲学にまとめてしまえばよい。学問の領域を無闇に分けるべきではないと仰せの先生方の気持ちはよくわかる。だがあくまで庶民的なお話だ。本屋とか。





クオリアの話なんかは割と好きではある。たとえばメアリーの部屋。白黒の部屋で育った「赤」を知らないメアリー。「赤」に関する情報は全て知っているが、さて部屋の外に出てしんぶん赤旗夕焼けを見た瞬間の感情は如何に。
だがこれに似た話はそこら中に転がっている。なんならぼくもある。ぼくは剣道二段。経験者ならわかるがつまり中学で辞めた。中学生は長さ三尺七寸の竹刀までしか使えない。成人は三尺九寸まで使える。男性用で6cm、70グラムもの差だ。ぼくは一応竹刀の分解組立までもしたことがある。だがぼくは三尺九寸の竹刀を試合で振る感覚を知らない。長さ、重さ、また間合いを知りようがない。剣道を再開するつもりもないからだ。













上記の文章群は、いずれも暇な大学生の時分であれば各々4,000文字くらいは平気で書けた記事の書き出しである。歳を重ね、蓄積した酒のせいか思考の言語化が著しく遅くなってきた。もうあの頃には戻れない。

シンデレラガールズ論








過去の記事を読み返し感傷に浸っていた。歳をとったせいかSentimentalismeになっている気がする。おセンチ(死語)な日々だ。久々のアイドルマスター論である。








Mobage上にて展開されていた「アイドルマスター シンデレラガールズ」はつい先日、2023年3月末をもってその11年半の歴史に幕を下ろした。サ終。ああ、サ終。このゲームを始めるためにMobageアカウントを作ってなんだかんだ9年くらいにはなるだろうか。まだこのコンテンツが「モバマス」と通称されていた時代だ。公式に「デレマス」という言葉が使われる前のお話。ましてやデレステなどという最近のゲームは全く知らない。
この数年はログインに使っていたメールアドレスもパスワードも忘れていたので最後にどんなイベントをやっていたのかなんてことも知らない。ただ、ぼくは最後の瞬間まで黒川千秋Pを名乗っていた。ついに声優のつかないまま本家のサ終を迎えた黒川千秋のプロデューサーである。




鑑賞行為がプロデュースとみなされうるのは声優サイドによるそれらの行為のプロデュースとしての認定が主な理由であるだろう。鑑賞を通して自らがプロデュースに携わっているという意識を持つ人と持たない人の違いがこれを理解する大きなヒントになる。前者はなんらかの機会において出演陣がそれらの行為をプロデュースとはっきり述べるのを耳にして自覚を深める一方で、後者はその機会を持たないがために単なる鑑賞者・消費者に留まる現象である。つまり権威者としての声優(その正当性の源泉は後述)による認定により作り上げられる「意識」こそが鑑賞をプロデュース行為に昇華させるのである。

7/31 アイマスにおけるアイドルとプロデューサー(プレイヤー)、アイドルと声優に関する考察 - 春香Pの雑記





さてここで、かつてこのブログでも取り上げた友人の偉大な記事をもう一度検討してみよう。本来は最初の記事を書いた段階で詳しく検討すべき問題であったのだが、いかんせん体力と酩酊の限界であったため実現しなかったものだ。Two Treatises of Idol - 民主共和国臨時政府執務室

ともあれ。


ここで春香Pは

権威者としての声優

と表現している。これは彼の従前(それこそぼくがモバマスを初めたころと言ってもよい)からの主張であった。中の人たる声優により直接的に音声によって「認定」されて初めてプロデューサー行為が成立するということだ。



彼の主張によれば、アイマス世界におけるプロデューサー(言わずもがなメタ的にはプレイヤー)にアイドルを売り出す「プロデューサー」、ここでは「善」つまり神聖性の提供者としての認識(=赦し)を与えうる存在は声優、すなわち歴とした生身の人間であるとされる。だがここで非常に重大な疑問が生じる。すなわち、声優の当てられていないアイドルのプロデューサーは「プロデューサー」の認識を持つことができないということである。これは、ぼくが序盤に述べた「ぼくは最後の瞬間まで黒川千秋Pを名乗っていた。ついに声優のつかないまま本家のサ終を迎えた黒川千秋のプロデューサーである」というぼくの意識とは完全に矛盾する。


この認識の相違はアイドルとしての神聖性をどこに見出すかという神学的な視座の差から発生する。すなわち、彼はアイドルマスターのコンテンツにおいて神聖性はキャラクターとしてのアイドル及び声優や周辺コンテンツを含めたキャラクターに付随する諸要素から生じるとみなしているのに対し、ぼくはアイドルの神聖性はアイドルのみから生じると考えている。

前掲のぼくの記事で述べたとおり声優は最早アイドルの神聖性の「依代として社会的に消費されているのだが、これはアイドルと声優は対等でないということを示している。神聖性がアイドルより生じるということは異論の余地はないものの、それは彼がいうところの「権威者としての声優」を必要とするということではない。





なお、彼の主張には当然賛同できる点もある。彼によれば、アイドルマスターのライブイベントにおけるエピソードとして

今井麻美は本人のブログにおいて、7th anniversaryのライブにで約束を歌ったのは私でなく「あの人」であった気がすると回想している。

という興味深い実例を取り上げている。これはすなわち声優はあくまで声優本人でありアイドルとしての意識はないことを示唆している。先日死んだイタコ芸人のように神聖性にとって生身の人間としての意識は介在しないのだ。






なぜここまでクソほどどうでもいい細かな内容を書き連ねているかといえば、人類が1,000年以上前にヨーロッパで同じようなことをやっていたことを思い出すためである。大シスマ、東西教会の分裂だ。以下ぼくは信者ではないので間違っている点があったら温かい目で魔女裁判にかけてほしい。

「分裂」には教皇の立場だとか坊主が結婚していいかとか色々な問題があったが、中でも神学上において分裂の決め手となったものがフィリオクェ問題である。

迷信深い異教徒のぼくらには馴染みのない問題なので簡単に説明する。東西とも三位一体説(父=God、子=イエス・キリスト、霊は「別だけど同じ」)は信じているが、その神聖性としての聖霊東方教会では「聖神゜」)の生成に関して認識に致命的な齟齬が発生してしまった。ギリシャ語で書かれた論文を訳す時、ローマ以下西側では聖霊は父より、子からも発する ex Patre Filioque procedit」としたのに対し、東側は聖神゜ は父より発する」であるとした。西側の「子からもFilioque」は元の文章には入っていなかった。さてどうしましょう、というおはなし。




こうして見てみると、アイドルの神聖性がどこから生じるかという問題はフィリオクェ問題と全く同じ構造を有していることがわかる。この1単語をめぐってキリスト教世界は1,000年以上真っ二つになったのだ。この世界観は結局のところヨーロッパを二分し、巡り巡って冷戦構造として世界を二分し、挙句の果てに目下の戦争を産んだ。彼とぼくとの間にあるアイドルマスターへの認識の差異は、この世界を二つに引き裂いてしまうかもしれないのだ。











とまあここまでギャンギャンと喚いてきたのだが、ぼくはおバカなので重要なことを見落としていた。彼は先述の記事の冒頭で

その後、私の認識は、ほかのPの皆様と話す機会を得たり、無印の展開に出会ったり(再発見)、また、ミリオンの展開の進展等を経て、パラダイムシフトとでも呼ぶべき変化を見ている(特に、「プロデューサーという意識」に関する部分については、全く今の認識と異なるところでもある)。

とすでに申し添えている。いわんや今になってはどう考えているのか皆目検討がつかない。なにせ彼とはもう5年近く会っていない。友人代表みたいな雰囲気で度々引き合いに出してはいるが、結局のところお互いにとって最優先の友だちではないのだ。彼が今頃どこで何をしているかはわからない。羅生門の梯子を降り闇夜の朱雀大路に消えていったのかもしれない。お互いに。

考え得ることは存在し得る。


ボロめのアパート。玄関入って正面がキッチン、すぐ右手に居室。ブラウン管のテレビ。ジャニーズ系の男。これからタイムトラベルをする。不意に台所に立ってコンロに点火したので覗き見するも「大丈夫だからほっとけ」と言われる。ぼくは居室に戻らされて電気を消す。ガスコンロに火を点けるとあり得ない形に広がり、男の着けているベルトのバカでかいバックルが熱せられて白いシャツにまで燃え広がりそうになる。そのまま何秒か経つとタイムトラベルできるそうだ。ブラウン管テレビでは某公共放送の災害緊急番組の様なテロップ。テレビが点いたままのためか、「誰かが後ろにいてタイムトラベルできない」。
そういえばぼくもタイムトラベル帰りだった。2015年の日本橋で「家系のまぜそば」を父親のような人と食っていた。いや、この風貌は2015年にしては若すぎだ。街の雰囲気もどことなく昭和な感じがする。それにしても、この店はもうすぐ潰れるようだ。ぼくらは最後の客だ。2枚綴りの小さい券をもらう。1枚渡すと四角いチャーシューを切ってくれた。

全人類のハッピーエンドを願う










また追いかけられる夢を見た。





【4492】世界がおかしいです。自分もおかしいです。怖いです。 | Dr林のこころと脳の相談室

落ち着いて2の冪を数え…にんじんを空に向けるんだ!そういう時にきっと人間はチャンスに巡り会えるものだ。監視カメラ破壊社会派のお友達と推理小説を読んだから今日もドラゴンが死ぬ。みんな死ぬ。明日地球が爆発するので世紀末なのでハッピー。さて、アンダーバーを引っ張ってきたのだが今日はとても嬉しいことがあった。まるで、夢の中の虹と観覧車が揺れ動く二次元の溶岩が溶解する原子炉を眺めている気持ちだった。そう、演劇が始まるのだ!明日天気になったらドアをぶん殴って全身を串刺しにしてやるのだ。そういう、演劇。でも雨だったからうさぎも飛べなくて全て水の泡。台無しだ。春みたいな色の魚が私を助けにきてくれると思っていたが、そんな馬鹿みたいな話があるわけがなく、現実は非情だった。人間は鏡のように反射し合い、みんな有象無象の波に呑まれて死んでいく。そんな中、忘れられた嘘がインジウムを連れて鈴を鳴らした。テレビがチカチカして血がドバドバ溢れてアフリカもアメリカになって狂い出す。はい、おしまいです。落ちてきましたら、私は病気じゃない。








アントナン・アルトーが如き文面である。すごく野蛮で美しい。確かな狂気の中に、詩としてのセンスを感じるのはぼくだけではないはずである。「原語」に戻せば韻も踏んでいることだろう。とてもぼくの脳からは生み出されない美しい言葉のサラダである。















ぼくは医学に関しては当然ながら全くの素人なのでなんとも言えないし言ったら何か恐ろしいものにぶっ殺されそうだが、上記の文章を書いてしまうような連中のことを近代文明とやらは「統合失調症」などと定義して精神病院に収容するらしい。この非常に美しい文章を記述できる15歳のホモ・サピエンスのメスを。




現代文明において、彼女は「落伍者」である。あえて誤解、分断を招く言葉を用いていえば落伍者である。精神「障害」と決めつけ(いや実際に生活にも差し障りが出ているので「障害」ではあるのだが)、治療と称し薬漬けにする。生産性を回復するために。







彼女の生み出した芸術は、生産性という言葉の前に治療される。それが文明である。
闇を切り拓くために火を生み出したように、わからないものをわかるために、文明を進歩させてきた。





とすれば、おそらく古代にもあった精神「障害」をわかるようにするために作ったものがではないか?







次の飯はいつ食べられるかもわからないような時代に、ムラの真ん中で

にんじんを空に向けるんだ!

などとクソデカい声で叫んでいる女がいたら、それはハチャメチャにこわいのである。


でも、そんな奴だからといってぶっ殺すわけにはいかん。きっとそいつはなにか恐ろしいものに操られたんだ。それのせいだ。こいつの言っていることはなにか恐ろしいものの意志の代弁なんだ。
そうやってできた「なにか恐ろしいものという観念」が稲妻なり天空なり大海なりに、あるいはいついたかもわからない(人間としての)英雄に結びついていったんだろう。そうやって人類は今日最高神ゼウスににんじんを捧げるようになったのである。



















ようは幸せになってほしいのだ。正確には、その「落伍者」が幸せになれると周りで見ているぼくらが思えるようにしたいのだ。


このブログでは何度も挑戦的なコメントを繰り返しており今更どう言われようと辞めるつもりもないが、ここではあえてナザレのイエスさんに登場してもらおう。「史的イエス」さんである。


彼は親父の跡を継ぎ、30過ぎまで大工として生きてきた。多分「旧約」聖書の内容は頭にばっちり叩き込まれてる。それなりに真面目な家庭だったのだろう。
ある日、遠縁のおっちゃんが川で儀式やってるというので行ってみたら「自分センスあってええな!」と言われ、その気になって荒野を40日間放浪してしまうのである。飲まず食わず。そしたら色々考えちゃうのである。この岩食えるんとちがうか。だが前読んだ本で昔のおっちゃんは

申命記8.3
『人はパンだけで生きるものではなく、』

とか言ってはったな。なんや、ぼくの考えにはちゃんと根拠があったんや!
そうして運よく生還してガンギマリになって活動を始めて3年くらいで死刑である。






クッソ哀れである。2000年経ってもこんなブログでコケにされるくらい哀れである。
だから、彼はきっと、いや間違いなく我が主「神」のお子さまだったのだ。ぼくらの罪を全て背負って亡くなり、復活することで永遠の命を得られるようにぼくらを救ってくれたのだ。彼が生きた人生には意味があるのだ。






そうとでも思わないとやっていけなかったフォロワーたちが福音書(字面からしハッピーエンドである)を書いた。


そうやってぼくは2000年後の深夜にブログを書けるわけだ。


















目的なく生きている人間はあまりに悲劇的である。土地のために、金のために人は死ぬ。殺し合わなくても災害で死ぬ。絶対死ぬ。死んだら終わり。
でも、胡蝶之夢を見ている間くらいはハッピーエンドを妄想したっていいんじゃないか。
最後には皆で手を繋いで、幕が降りるまで拍手喝采を受けようじゃないか。きっと最後には皆分かり合える。多分ね。






Pray for Turkey and Syria.







Dr林のこころと脳の相談室

心象風景、あるいはきゅうりパンについて






首都高速湾岸線。曇天のお台場。空飛ぶスパゲッティ・モンスタータワーマンションの横を飛行。




















許されている。許されない。許されていない。
快は善か?快は悪でないならば善か?























西を向く。曇天。右手に低い丘。左手前方に遮られた太陽。田圃。畔道。ゆっくり走り去るリニアモーターカー。通過を見送り畔道に立って後ろ姿を眺める。遠く太陽の下に田舎の2車線国道。ロードサイドの牛丼屋。「娯楽」なき世界。


























小学校?階段。踊り場の明かり取りから陽光。手すり。曇天。並んだ蛇口。無駄にガラガラと鳴る引き戸。
走って逃げる。怒る教師はいない。俺は何階にいる?女から逃げる。汗が噴き出て息も上がる。年下の女は追ってくる。外には出ない、出れないから。女のニヤつき。撒いたつもりでも追ってくる。明白な殺意。


















4万払った露天風呂付きの個室旅館でシたセックス。コンドームはない。4回。布団の中で、シャワールームで、風呂で、布団の中で。女の腹上に出す。後背位。女を屈服させている自分の横顔を見ている自分に興奮する。ニヤけ面。






趣深さ。海。あるいはただ深いだけ?



























寒空の下の屋台。トムヤムクン。酸味。
酸味とは生命への危機。最高の美味。あれを超える飯には未だ出会えない。





三次元空間のものを「絵」にするのは、はっきりいって正気の沙汰じゃない。Aは牛、Dは戸。カスティーリャ人に突進するA。
























ペルソナ。「賢いんだから」。タイツを脱がす。60デニール、あるいはもっと?どうやら「賢い」らしい。賢い人間についていけ。哲人政治。『我が闘争』。









頭痛から「許されている」。緑色のブロックを数個並べてきゅうりパン。変な脳波が出ているらしい。悪でないから善。たとえそれが誰からも理解されなくても。
無限の苦しみ。善も悪も苦。y=-x^2。











全て禁じられている。許されていない。だから許されている。2+2=5。乳にカビの生えた「食い物」。